2月の青年会

2月16日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceと讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」をギターとオルガンの伴奏によって歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記11〜14章のところを解説し、その後は懇談をしました。


次回は2025年3月16日(日)礼拝終了後 会堂にて、ヨブ記15〜17章について並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) の p.84-94から学びます。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

ヨブ記を読もう 第九回
「私の憤りをしっかりと量ってほしい」
(ヨブ記11〜14章)

並木浩一「ヨブ記を読もう」
(日本キリスト教団出版局、2024年) p.74-83

北原和夫牧師

 

8章で友人の一人ビルタドが弁論し、神の「公正」がある以上、問題はヨブの側にあると断定します。これを受けて9〜10章でヨブが「正義」とは逆のようなことが身に起こっている状況の中で、神が果たして「公正の神」なのか疑いを持ち始めている自分に絶望し、衰弱していることを告白します。

11章で、別の友人ツオファルが、「我が説得は清く、私はあなたの目には清廉だ、と言っている口達者のヨブは、不遜ではないか。神から知恵を授かればもっと賢くなるのに。」と言います。「清い」zakhという言葉は、もともとは神殿などで黄金のランプに灯す純粋な油を形容する言葉だそうです(出エジプト記27:20)[1]。高貴な清潔さを表す言葉なのでしょう。「清廉」barという言葉は、もともと「純粋な」という意味の言葉で、例えば、詩編19:9b「主の戒めは清らかで、目に光を与える。」、箴言20:9「わたしの心を潔白にした、と誰が言えようか。」など[2]。そして、「むしろ、神はあなたに知恵を与えて、あなたを賢くしてあなたの咎を忘れてくれるだろう」とヨブを説得しようとします。しかし、ヨブは自分が清いかどうかではなく、正しいのかどうかで苦しんでいるのです。

12章からヨブが反論します。神のことを知っているかのようなツオファルの「知恵」chākhamは自身の幻想に過ぎず、死んだら一緒に消えてしまうようなものだ、と批判します。そして「このわたしにも、あなた方と同様の心がある。」といいます。ここで「心」lēbhとは本来、箴言11:08に「知恵ある心は戒めを受け入れ、無知な唇は滅びに落とされる。」とあるように、「知恵」の宿るところとされています[3]。ツオファルの「知恵」とは違うのであり、神に呼ばわって、神の応答を得るという「知恵」なのだ。しかしながら、今のヨブには、神の応答がないことを見て、友人たちが嘲笑っているのだ。だから、友人たちに言いたい「沈黙を守って欲しい。それが君たちがもつべき知恵なのだ。そして私の論じるところをまともに聞いてほしい」(13:5~15)と訴えるのです。13章後半では、ヨブは神に対する訴えの気持ちを記します。「私の咎と罪はどれほどあるのか。私に知らせて欲しい。」そして心身ともにボロボロになっていきます。

最後に、「神は私の歩みを数え上げるが、罪を見張らずに我が罪過を袋に詰めて、咎を塗り隠してくれるのではないか」という希望に身を託すのです。 ここで気づいたことですが、ヨブ記は詩編、箴言を頻繁に引用しているのです。

[1]Theological Dictionary of the Old Testament vol. IV(W.B.Eerdmans Pub., 1980) p.62,
[2]同vol. II (1975) p.308、
[3]同vol. IV (1980) p.364


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