5月の青年会

5月19日礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceを皆で歌ってから、ヨブ記(1:1~6)より「主が与え、主が取り去りたもう」をテーマに、並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) p.24-27を読み解き、その後 それぞれが生活の中で感じたことなど自由懇談をいたしました。

並木浩一訳「ヨブ記」は以下のサイトからダウンロードできます。
https://bp-uccj.jp/files/namiki_job_translation.pdf 

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「主が与え、主が取り去りたもう(第一回)」
 ヨブ記1:1〜6

並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024年)

北原和夫牧師

「まえがき」(並木 p.7-23)の概要

 まず、ヨブ記全体の構成を述べている。1〜2章は「序曲」、ここでヨブは神の許しを得たサタンからひどい仕打ちを受けた。しかし、ヨブは「主が与え、主が取り去りたもう」と言って、神への信仰を守る。3章〜42章6節は詩文であり、ヨブは自分がこの世に生まれたことを呪う。友人たちがヨブの呪いにについて論評するということが続く。ヨブは友人たちには応えず、神に食い下がるが、神はまともに応えない。42章7節以降は「終曲」となっている。
 ヨブ記の成立年代は、ユダヤ正統主義が形成された時期以降で330〜300年BCとされる。ヨブはユダヤ正統主義には批判的で普遍主義を貫いた。 
1)ドラマとしてのヨブ記
創世記のアブラハム、イサクの記事は「物語」であり最後は神が決着させる。ヤコブ、ヨセフはドラマ的、危機を乗り越えるのは人間の働き。ヨブ記はドラマ路線、神とサタンが関わるドラマであり、ヨブは神に不条理を訴えるが神から叱責を受けヨブなりに解釈して神に応答する。
2)宿命(神の定め)と運命(人が切り開く可能性)
ヨブは自覚と行動によって神に問いかけ続けた。最後に被造者としての自覚を持つに到る。
3)神の「真の証人」
神がヨブを叱責したのは、ヨブが自分の正義の尺度によって神の意図を推測して抗議したことである。イエスの受難における神への訴えの祈りを想起させる。
4)ヨブが用いた神の呼び名
「主が与え、主が取り去りたもう」の「主」は信頼を込めた呼び名であるが、以後は「神」もしくは「全能者」を使っている。

1章1〜6節(並木 p.24-27)

 最初にヨブの紹介がある。当時のエルサレム中心のユダヤ教徒から見ると,異邦の地にいる完璧なる義人として紹介されています。桁外れの富裕者であるにもかかわらず一夫一婦主義を守る敬虔な信仰者であったのです。息子たちが財力を使って宴席を設けている感覚を気にして、神の宥めのために燔祭を捧げたとあります。
 ここで並木先生は「息子たちは心の中で神を讃えたかもしれない」と訳しておられますが、新共同訳などでは「息子たちは心の中で神を呪ったかもしれない」と訳されています。並木訳では、息子たちが罪を犯しつつも、自己正当化していることの逆説性を表現していることになります。
 文献を調べてみる[*]と確かに「讃える」(brk)は、euphemism(婉曲表現)として逆のことを意味するとしています。他にヨブ記1:11など。でも、並木訳のように「神を讃えたかもしれない」と文字通りの意味にとって、その意外性によって読者に気づかせようとする著者の意図に沿うものと思います。読者の中にも、自分の罪に気付かないまま、言葉の上で神を賛美して安心している人が、この文章を読んでハッと浅はかな自己正当化に気づいたかもしれません。

*Theological Dictionary of the Old Testament vol.II (William B. Eerdmans Publishing Company, 1975) p.295                             

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