12月の青年会「ヨブ記を読もう 第16回」
12月7日(日)礼拝終了後。二階集会室にて開催しました。
初めにギターとキーボードの伴奏でAmazing Graceを歌い、その間に参加者が礼拝堂から集まってきたところで、開会の祈祷を行い、次に、ギターとキーボードの伴奏でWe are one in the Spiritを歌いました。そのあと、ヨブ記29章について並木浩一著「ヨブ記を読もう」の該当箇所のところを解説しました。
その後は「クリスマス祝会」として、軽食とコーヒーをとりながら、懇談のときをもちました。1年間の青年会での「ヨブ記」の学び、また日々の生活の中で感じていることなどを分かち合いました。13時過ぎに散会。ヨブ記は一人で読んでいると分かりにくいところが多いけれど、一緒に読んで議論してきたことによって、理解も深まり、また自己正当化と反省との間で揺れ動くヨブへの共感を覚える、といった感想も分かち合いました。
次回1月18日(日)は二階の集会室で開催します。ヨブ記30章、並木浩一著「ヨブ記を読もう」第6章「現在の悲惨」(P.145〜152)、Amazing Grace、We are one in the Spiritを歌います。今後も新しい讃美歌を採り入れて行きたいと思います。
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
ヨブ記を読もう 第16回(2025/12/07)
過去の栄誉(29章)
北原和夫牧師
ヨブ記の27章において、ヨブと友人たちの論争は終わります。論争は行き違いのままで終わりました。29〜31章ではヨブは神に直接対決を試みます。まず29章では神が過去において私を祝福してくれたことをた述べます。30章では現在の酷い状況を確認します。31章で自分の潔白を主張します。本日は29章の「過去の栄誉」のところです。
2〜6節では、神が近くにいて祝福を与えてくれたことを振り返ります。「凝乳に洗われ」「岩から油注がれた」という祝福が述べられます。「油注ぐ」とは、民の指導者の扱いをうけたことを表します。
7〜10節では、自分が町で如何に尊敬されていたかを述べます。ヨブを見ると、「君侯たち」(sarim 原意は「指揮官」)は語るのを止め、「君主たち」(ngidim 原意は他者の前に立つ者、高い位置にある者)の声は静まったとあります。このsarimとngidimという言葉は歴代誌上にも使われています。「ダビデは千人隊と百人隊の長(sarim)およびすべての指導者(ngdim)と協議し・・・」つまり、sarimよりもngidimの方が格が上のような感じです。
11〜17節では、弱者を助け、正義を実行する者として、尊敬されていた。
18〜20節では、誉の中で家族(qen 原意は「巣」、イザヤ書16:2「・・・モアブの娘らは巣を追われ、彷徨う鳥のようです」)の中で生を終えることができると思っていた。つまり、安らかに生涯を終えることを表します。
21〜25節では、人々の尊敬を集めていた自分を振り返るのです。
14~15節の「私は正義をまとったが、正義も私をまとい、わが公正が私の衣ともターバンともなった。」に注目したい。私(ヨブ)は神の正義を受け入れようとしたが、むしろ神が私の「正義」をまとうべきではないか。私の「公正」こそ本物だと言わんばかりであります。
ここで、ヘブライ語の辞書を調べると、正義sedeqは元々真実、真っ直ぐ、救いを表す言葉であり、一方「公正」は判断、行動規範といった法的一貫性を表す言葉であるとのことです。「公正」と「正義」の関係を示す例として、イザヤ書26:9に「あなた(神)が裁き(公正)を地に行われるとき、世界に住む人々は正義を学ぶでしょう。」とあります。つまり、神の裁きが一貫していれば、民は何が正義かを理解するであろう」というのです。
したがって、ヨブが問題にしたのは、神が行っていることが一貫していないように見える、そうすると、何が一体正義なのかわからなくなる、ということのように思われるのです。
アーカイブをご覧になりたい方は ↓ の「青年会のお知らせ」をクリックして下さい。
北原和夫牧師のお話の原稿もお読みいただけます。


