9月の青年会「ヨブ記を読もう 第15回」
9月21日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
オルガンとギターの伴奏によって、Amazing Graceと讃美歌21の417番「聖霊によりて我ら一つ(We are one in the Spirit)」を英語と日本語で歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記28章のところを解説し、その後は懇談をしました。懇談の中で、記者がヨブならびに三人の友人たちを批判する視点として、「知恵」と「分別」を挙げていることについて議論をしました。さらに、神はサタンに唆されてヨブを試みるのですが、なぜそのようなことを神はしたのか。サタンと神との関係は何か、といったところを議論しました。
次回について、10月19日はお休みにして、11月16日に開催します。
ヨブ記29章、「ヨブ記を読もう」のp.138~144
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
ヨブ記を読もう 第15回(2025/09/21)
知恵の所在を問う歌(28章)
並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024 年)p.131~137
北原和夫牧師
ヨブ記の27章において、ヨブと友人たちの論争は終わります。論争は行き違いのままです。ヨブは神の意図が何かを問いかけますが、神は答えません。ヨブは神の正義を疑って神に挑戦し続けるのです。一方友人たちは「因果応報」によって神を理解できるとしてヨブを説得しようとします。
28章は後代に加筆されたものとされています。27章までの論争について批評しているのです。
1〜11節は、人は岩石や塵を分析をして、金属を見出そうとします。というところから始まります。まさにサイエンスの手法を述べています。しかし、人の知的分析によって、本当の知恵は見出せるのだろうか、ということが12〜24節で問いかけられます。どんな高価な貴重品によっても得ることのできない知恵(本当の世界理解)があるのだ、というのです。「知恵はどこに由来するのか」、「分別の場所はどこにあるのか」は人には分からないことなのだ。神だけがその在り場所とそこに到る道を知っているのであり、人には隠されているというのです。25〜27節では、この世の事柄を見て、その背後に神が働いていることを覚えよ、というのです。これでは、人は「知恵」については全く手も足も出ないということになりますが、28節において、「知恵とは主を恐れること、分別とは悪から遠ざかること」と述べています。「知恵」は全く到達不可能というのではなく、神と共に歩むこと、つまり神を恐れること、信仰に立つことによって与えられるのだ、と言うのです。また、悪と思われることがあれば、それからは遠ざかることによって「分別」は与えられるのだ、というのです。
ここで「知恵」と「分別」はどう違うのか気になるところです。そこで、紀元前3世紀頃からギリシャ語に翻訳された「七十人訳旧約聖書」において、これら二つの言葉がどのように翻訳されているかをみてみますと、「知恵」はsophia、「分別」はepistemeと訳されています。sophiaは優れた知識・教養という意味であります。一方、epistemeは「理解」という意味であり、新約聖書ではなくギリシャ哲学において用いられていた用語のようなのです。したがって、ヨブ記28章の著者は、「知恵」は信仰に生きることであり、「分別」は人の理性・知性によって正しく生きることを確信することであると言いたかったのではないかと思うのです。
旧約聖書続編の中の「シラ書」の1章1〜2節「すべての知恵は、主から来る。主と共に永遠に存在する。浜辺の砂、雨の滴、永遠に続く日々、だれがこれらを数え尽くしえようか。」にありますように、旧約時代には「知恵」は主なる神の領域の知識でり、人が到達できない知識と考えられていたのです。
紀元400年頃、アウグスティヌスは「三位一体論」(De Trinitate)の中で(第14巻26節)、知識には二つあって、一つはscientiaでサイエンスであり、人の知性によって到達できる知識である。もう一つはsapientia(叡智)であり、神の知識である。後者は、神のわざに関与することによって神から与えられる啓示であるとされています。前者が「分別」、後者が「知恵」に対応しているのではないか、と考えています。このように「知恵」は如何にして得られるか、という問いはずっと人々の関心ごとであったのだと思います。
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