8月の青年会「ヨブ記を読もう第14回」
8月17日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
オルガンとギターの伴奏によって、Amazing Graceと讃美歌21の417番「聖霊によりて我ら一つ(We are one in the Spirit)」を英語で歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記25〜27章のところを解説し、その後は懇談をしました。懇談の中で、ヨブの「良心」とは何かについての議論となりました。実際、並木先生の解説によれば、「良心」と訳されているヘブライ語の意味は「心」であり多義的であり、文脈上自分のモラルを自己点検する、という意味となるとのこと。しかしながら、「自己点検」自体で正当な判断に到るのだろうか、という議論も。ギリシャ語、ラテン語には「良心」に対応する言葉があり、そのことと対比して議論し、さらに日本語の「良心」(良い心)のもつ響きとも対比して議論しました。
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
ヨブ記を読もう 第14回(2025/08/17)
ビルダトの弁論第三回とヨブの弁論第八回(26〜28章)
並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024 年)p.123~131
北原和夫牧師
並木先生によると、25〜26章は乱れていて、以下のように再構成が可能。
ビルダトの弁論は以下のようになります。
25:1~3 ビルダト曰く:神の支配は絶大である。
26:5~6 神の前では陰府も奈落の底も丸見えである。
26:7~14 神は宇宙を創成する。
25:4~6 月や星々のように人も神の前では小さな存在だ。
これに対するヨブの弁論は以下のようになります。
26:1~4 神の威力を語る君(ビルダト)は、如何なる権威で語るのか。
27:1~12 私は高潔の道を歩む。私の「良心」はそのことを確信している。不敬の輩には希望はないのに、空疎な言葉を吐いている。
27:13~18 不敬な輩は神の裁きを受けるだけだ。
神はヨブに対して正当な論理を示さないが、ヨブは自分の良心によって、自己点検をして、神に対して高潔な態度を取り続ける。27:3~4 「我がうちに一息たりとも残る限り、神の霊が我が鼻に留まる限り、我が唇は断じて不義を語らず、我が下は偽りを囁かない。」
「良心(lēbāb)」について、並木先生は「ヨブ記註解」(日本基督教団出版局、2021)p.285において以下のように説明しています。「神の告発を恐れるゆえではなく、自分が自己の行為を反省することにより、『やましさ』の有無を判断する『自己意識』すなわち『内心』の働きである。・・・旧約では、良心に関わる事柄を預言者たちが取り上げたが、特定の個人における良心を重視したのはヤハウィストと呼ばれる編者たちで、良心の声に逆らうことは人間の罪としている(創世記3:9~13、4:6~9など)。ヨブ記は良心に基づいて発言する人間の自律性を強調している。イエス、パウロ、ルターに繋がる。」
調べてみると[1]、ヘブライ語の「良心(lēbāb)」は元々心を表す言葉であって多義的あり、「良心」そのものを表す言葉はない。申命記30:14、17では、「心に神の言葉があるならそれを行え」「心が聞き従わなければ汝は滅びる」という記述があり、神のみ言葉が介在して自己判断する仕組み。
一方、ギリシャ語やラテン語には「良心」を表す言葉があり、それぞれ、syneidesis、conscientiaであり、「共に見る」「共に知る」の意。知る対象と主体が一致して二つの自我が互いに知るという状況において、「自己確認」となる。
[1]Theological Dictionary of the Old Testament vol VII(William B. Eerdmann, 1995) p.399-437.
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