6月の青年会「ヨブ記を読もう 第12回」

6月15日(日)礼拝終了後 2階の集会室にて開催しました。
Amazing Graceと讃美歌21の417番「聖霊によりて我ら一つ」を電子オルガンとギターの伴奏によって歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記20〜21章のところを解説し、その後は懇談をしました。懇談の中で、私たち人間は、本当に互いに心の苦しみを分かち合うことができるのだろうか、との話し合いになりました。 ヨブの友人たちは初めはヨブに同情していたのですが、対話を続けていく中で、視点のすれ違いが広がっていくのです。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

ヨブ記を読もう 第12回
「だが、私は知っている、私を贖う者は生きたもう(3)」

(ヨブ記20〜21章)

並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024 年)p.104-110

北原和夫牧師

ツオファルは第一回の弁論(11章)で、「あなた(ヨブ)は言う『我が説得は清く、私はあなた(神)の目に清廉だ』と。だが、神が語ってくれるなら、・・・(神が)あなたに隠れた知恵を告げるなら、あなたの賢さは二倍になろう。知っておくが良い、神はあなたの咎の一部を忘れて下さる。」(11:4~6)つまり、ヨブは知恵がなくて咎を犯したことによって不運となったが、知恵を神から頂ければ助かるだろう、と言うのです。これに対して、ヨブは、「自分が笑い種になっている。神に呼ばわって神の応答をを得ていた人が、『完全な義人かね』と嘲笑の的になっている。」(12:4)と反論する。そして、「荒らしまわる者たちの天幕は安泰で、神を怒らせる者たちは安泰、彼らを神が御手で導いているのだ(としか言いようがない)。」(12:6)という現実を訴えます。そう訴えながらも、神に「私の咎と罪はどれほどあるのか、・・・私に知らせて下さい」(13:23)と訴えるが、神からの応答はない。そのあと、エリファズとヨブの弁論、ピルダトとヨブの弁論が続き、再びツオファルが話します。

20章で、ツオファルは「私を侮辱する(ヨブの)お説教を聞いたので、私の分別[1]が発する霊[2]が私に応答させる。」(20:3)と言って、20:5~8において、悪を行うものの行く末が滅びである、と再び因果応報論を述べます。人を貪って栄えても最後は神に襲われてしまうのだ、というのです(20:21~22)。

21章はツオファルの弁論に対するヨブの反論です。1~13節では、「現実には邪悪な人々が繁栄しているではないか。」 17~18節では、神が邪悪な人々に報復することを望む、とまで述べます。そして、23~26節で「満ち足りたままで生を終える者もあれば、苦しむ魂[3]を抱きつつ幸福[4]を味わうことなく死するという不平等の現実があるではないか、と言うのです。そして、人生の最後の死は、全ての人に来るが、死後についての弔いも不平等である。したがって、因果応報は誤りであり、慰めにならない、と反論するのです。

22章からは、ヨブの友人たちは、ヨブにこそ問題ありとして攻撃することになります。

先になりますが、38章からやっと始まる神の弁論について、心理学者C.G.ユング(「ヨブへの答え」みすず書房、2002年刊)においては、ヨブと共に神も精神分析の対象となっており、並木先生の解釈(p.177)が異なっています。サタンをどう捉えるかということと関わってきます。

[1] binah、元々「分ける」「分別する」という意味から、洞察(insight)、理解(understanding)と言う意味の言葉となる。Theological Dictionary of the Old Testament vol.II, p.99-107(William B. Eerdmans Publ. Com. 1975)  

[2]ruah もともと「風」、「息」を表す言葉。ibid. vol.XIII, p.365~402 「分別」が発するruahとは何か分かりにくいが、おそらく分別から生じる確信の勢いを指すのではないか。    

[3] nepes、もともと水や食物を飲み込む「喉」を表すことばで、生命維持のための意志・意欲を表す。ibid. vol. IX, p.497-519   

[4] tob、どちらかと言うとこの世的に恵まれたことの幸せを意味する言葉である。ibid. vol.V, p.315

 


次回は7月20日(日)礼拝終了後 会堂にて、ヨブ記22〜24章について並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) の p.111-123から学びます。

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