5月の青年会「ヨブ記を読もう 第11回」
5月18日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceと讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」をオルガンとギターの伴奏によって歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記18〜19章のところを解説し、その後は懇談をしました。懇談の中で、私たち人間は、本当に互いに心の苦しみを分かち合うことができるのだろうか、との話し合いになりました。 ヨブの友人たちは初めはヨブに同情していたのですが、対話を続けていく中で、視点のすれ違いが広がっていくのです。
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
ヨブ記を読もう 第11回
「だが、私は知っている、私を贖う者は生きたもう(2)」
(ヨブ記18〜19章)
並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024 年)p.94-104
北原和夫牧師
ビルタドは第一回(第18章)で、神は公正を曲げることはないので、神の公正を疑っているヨブのほうに問題があると決めつけます。そして友人たちとヨブが弁論しあっていることに対して「いつになったら多弁に終止符を打つのか?」と迫ります。この18:2の箇所の新共同訳では「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか?」と訳されています。並木先生の「ヨブ記註解」[1]によると、そのヘブライ語は「多弁の終わり」とも訳せるし「多弁の罠」とも訳せる言葉のようです。そして「応報原理」に基づいて、神の公正についての疑いをもって苦しんでいるヨブに対して、ビルタドは反発して「ヨブが自分の怒りで自分自身を引き裂いているだけだ。」と断じます。そして、神の公正を疑う者の最後の有様を冷酷に並べ立てます(18:5~14)。
それに対するヨブの弁論(第19章)の冒頭でビルタドに言います。「いつまでも、私の魂を苦しめるのか。私は過失を犯したのかも知れない。しかし、私の過失は私に「仮寓」する事柄に過ぎない。」(19:4)というのです。この「仮寓」(lin)は、もともとは「夜を過ごす」という動詞であり、私のうちに旅人のように仮住まいをする、というニュアンスの言葉です。気持ちを表しただけで、神を冒涜するようなものではない。だから、ビルダトが、私の人格を否定するように大袈裟に取り上げているのはやめて欲しい。ヨブが訴えているのは、「私が『暴虐だ』と叫んでも神からの応答がない。助けを求めても、『公義』が存在していないという実態なのだ。」(19:7)というです。神は公義の存在であると信じつつも、公義が存在せず、応答もない。そこに孤独と絶望を感じているのです。
突如、ヨブは弱りきったところで開き直り、神に聴き入れられなかった訴えを碑として岩に刻んで永久保存したい(19:23~24)とまで言いますが、「私を贖う者(苦しみから救う者)は生きたもう(神は生きた神である)。しかも最後の者(法廷に最後に出廷する証人としての神)が塵(陰府)の上に立つのだ(「公義」を立てたもう)。」というビジョン(幻)に到るのです(19:25)。これはイザヤ書44:6~8の信仰を告白しています。
「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。・・・・恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。・・・」
この信仰に立って、ヨブは言います。「ビルダトたちが、ヨブの方に問題があるというのなら、むしろ恐れなければならないのはビルダトたちであり、最後に『公義』が示されるときには、彼らこそ裁きを受けるのだ。」との思いに到るのです。とはいえ、友人たちとの弁論は続いていきます。
[1] 並木浩一「ヨブ記註解」(日本基督教団出版局、2021年)、p.224
次回は6月15日(日)礼拝終了後 会堂にて、ヨブ記20〜21章について並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) の p.104-110から学びます。
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