3月の青年会 ヨブ記を読もう 第十回
3月16日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceと讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」をオルガンの伴奏によって歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記15〜17章のところを解説し、その後は懇談をしました。
4月の第三聖日4月20日復活日には礼拝後愛餐会が予定されていますので青年会はお休みにし、次回は5月18日(日)礼拝終了後 会堂にて、ヨブ記18〜19章について並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) の p.94-104から学びます。
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
ヨブ記を読もう 第十回
「だが、私は知っている、私を贖う者は生きたもう(1)」
(ヨブ記15〜17章)
並木浩一「ヨブ記を読もう」
(日本キリスト教団出版局、2024年) p.84-94
北原和夫牧師
エリファズは第一回(第四章)は応報思想に立ってヨブに罪ありと決めつける。第二回は「賢者(知恵者)は風に等しい知識を持ち出すのだろうか」(15:2)から始まって、人々に嫌われている東風で腹を満たしていると非難する。「あなた(ヨブ)は神々の評議を傍聴し、知恵を自分に引きよせたのか。」(15:8)と問い詰める。
これに対してヨブは友人たちと「魂の交換」をしたい(16:4)、自分の気持ちを友人たちに理解してほしいと反論する。その後、ヨブに対する神の無慈悲な扱いを言葉にして神を非難する。「我が痩せ衰えた姿が私に敵して立ち、我が顔に向かって反駁する」(16:8)、「神はわたしを悪漢に引き渡し、邪悪な者たちの手に、私を投げ与える。」(16:11)、「彼(神の)射手が私を包囲し、私の腎を無慈悲に切り裂いて、胆汁を地に流れ出させる。」(16:13) そして「我が両掌には暴虐がなく、我が祈りは潔いにも関わらず。」(16:17)と自己正当性の真情を吐露する。「暴虐」chāmāsという言葉は神のヨブ自身への対応についても使われている「私が(神に)『暴虐だ』と叫んでも、私には応答がない。」(19:7)。ここで「潔い」zākhāhは、並木著「ヨブ記註解」p.217によれば、祭儀のオリーブ油が澄んでいることの形容に用いられる言葉(出エジプト記27:20 )をモラルの曇りなきことの意味へ転用したものである。
以降で「こんな時にも、私の証人が天にいる、私を確認してくれる者が、高いところにいる、わが仲介者、わが友が。」(16:19-20)と言い「証人」、「仲介者」の存在を希求するが、その望みも終わる。しかし、神の残虐に対して徹底的に告発する反面、疲れ切った自分を告白するときに、神への信頼と祈りを意識することで、新たな段階に向かう。一方で生きているうちに神の応答が得られるのかどうか。「まことに、その日が来るまではわずかではあるが、すぐに私は行って帰ることなき路(陰府に降る路)を行くだろう。」(17:1)と悲観的となる。嘲笑者たちに対してヨブの正しさを保証してくれる者の存在を願うが叶わない(17:2)。ヨブは「あなた(神)が彼ら(友人たち)から『賢察』を奪ったからには、(そのために嘲笑者となってしまった)彼らを高めないで欲しい」と神に願う(17:4)。「賢察」は「賢明」「洞察」insightであり、並木先生は「賢察」と訳された。この言葉はヨブ記の後半で、友人たちがヨブを嘲笑するときにも使われている。「一体、人が神を益することがありえようか。賢明な者も自分自身を益するだけではないか。」(22:2、エリファズの弁論第三回)、「ヨブは知りもしないことを語っている。彼の弁論は賢察に基づいていない。」(34:35、エリフの弁論)
理不尽なことが起こり、神に訴えても反応がないままその残虐性に耐え、しかし神への信頼と祈りを意識しようと努めるヨブの状況を読んで思うに、どんな状況においても、神の存在、神の公義があるはずだ、という信念を持ち続けることの意味をあらためて思うのである。結局は、神の世界への関わりは人間の知性では理解できないものだ。人はそれぞれに神から課題を与えられ、許されたこの世の命の中でそれに向き合っていく、もしくは参画していく存在なのではないだろうか。
さらに知識(知性)のあり方について、エリファズの第二回目の議論ではヨブの「知恵」、すなわち知識の量が問われた。ところが第三回以降では「賢察」が論じられる。つまり知識の質としての洞察が問われる。ヨブとエリファスの議論は噛み合わないままではあるが、質的に高まっているように思われる。対話によって双方が高められていくことが見えてくる。
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