1月の青年会
1月19日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceと讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」(英語の歌詞も)をギターとオルガンの伴奏によって歌いました。
「ヨブ記を読もう」のヨブ記8〜10章のところを解説し、その後は懇談をしました。
次回は2025年2月16日(日)礼拝終了後 会堂にて、ヨブ記11〜14章について並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) の p.74-83から学びます。
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
ヨブ記を読もう 第八回
「私の憤りをしっかりと量ってほしい」
(ヨブ記8〜10章)
並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024年) p.67-73
北原和夫牧師
1〜2章において主がサタンに乗せられてサタンの思うままにヨブを痛めつけることが起こり、最後にヨブ自身が皮膚病に苦しむことになり、三人の友人が慰めようとしてやってくる。
3章のヨブの嘆きに対して、4〜5章でエリファズが弁論「神の応報原理は貫徹しているのであって、苦難を招いた原因はヨブ自身にあるのだから、理不尽な状態は神の訓戒であると受け止めて謙虚になれ」と論じます。これに対して6〜7章でヨブが弁論する。「ああ、私の憤りがしっかりと量られ、私の災いも一緒に秤に載せてもらえれば、今、それが海の砂よりも重いことを示せるのだ」と苦しみを訴え、神の「応報」を信じつつも、「応報」は原則であって神は人間が考える応報には従わないこともありうるとの信仰を述べ、エリファズの議論は表面的だと論破する。一方で、沈黙する神に訴え続ける。
その様子を見て、8章でビルタドが弁論する。ここでは神の「公正」がある以上、問題はヨブの側にあると断定する。「もし、あなたのいうとおり、あなたが清く正しいのなら、神はやがて修復してくれるはずだ。」と言い、ヨブの悩みとは噛み合わない。これを受けて9〜10章でヨブが「正義」とは逆のことが起こっている状況の中で、神が果たして「公正の神」なのか疑いを持ち始めている自分に絶望し、衰弱していることを告白する。10:1~3、10:20~22の告白は暗黒の中に落ち込んでいるヨブの心境を示している。
並木先生が指摘されているように(p.68)、「公正」「正義」にはいくつかのヘブライ語がある、mišpāt(ミシュパート)、sādaq(ツエデク)さらにyāšar。
mišpātはもともと祭司がくじを引いて政治的決定がなされることを指す言葉だったそうで(民数記27:21)、それから法的さらに神的な決定の過程を表すようになったとのことである[1]。ヨブ記8:3「神が公正をねじ曲げる・・」
sādaqもともとは真実であることを指す言葉だそうで、関係性において正しいことを表す[2]。ヨブ記に頻出する。ヨブ記4:17「人は神より正しいだろうか。・・」、8:3「全能者が正義を・・」、8:6「あなたの正義の住まい・・」、9:2「人はどうして正しくありるだろう。」、9:15「たとえ、私が正当であっても彼に答弁できず・・」、9:20「たとえ私が正しくても・・」、10:15「だが私は正しいのに、・・」
yāšarもともとは直線的という意味から生き方が実直であることを表す[3]。ヨブ記8:6「清く、正しいのであれば・・」
1月19日には、9:15 の後半を「・・・彼にわたしの正しさmišpātについて答弁できず・・」と補ってみましたが、並木先生に伺ったら文法的に無理があり、むしろ「・・・彼に答弁できず、私の訴訟相手(šōpēt, [4])に・・・」とするのが自然とのことです。
[1]Theological Dictionary of the Old Testament vol. IX (W.B.Eerdmans Pub., 1998) p.86、
[2]同vol. XII (2003) p.239
[3]同 vol. VI (1990) p.463
[4]同vol.XV(2006)p.411
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