サンティアゴ巡礼を旅して(壮年会・ベタニア会 合同新年懇親会 講演のレジュメ)

壮年会・ベタニア会は、2024年1月28日 合同新年懇親会において、2023年9月にスペイン サンティアゴを巡礼した中松 隆 兄(三軒茶屋教会教会員)の講演会を開催しました。
講演『サンティアゴ巡礼を旅して』のレジュメを公開いたします。

はじめに
 私は、2023年9月、10月に40日かけて、「サンティアゴ巡礼路」を歩いてきました。今日は、その時のお話をしたいと思います。
 先ず最初に、「サンティアゴ巡礼路の歴史」を振り返ってみます。

サンティアゴ巡礼の歴史
 サンティアゴは、スペイン語で聖ヤコブのことであります。聖人SantoにヤコブYagoがくっついてサンティアゴ(Santiago)になりました。
 ヤコブは、12使徒のひとりで、漁師である父セベタイの子であり、兄弟に福音書で有名なヨハネがいます。ちなみに、聖ヤコブは英語ではSaint James,フランス語ではSaint Jackと呼ばれます。ジェームスボンドのJames、ジャックとマメの木のJackであります。
 ヤコブは、イエスの死後、当時ローマ帝国のヒスパニア州と呼ばれていた現在のスペインに赴き布教活動を行います。約10年近くのスペインの布教活動の後、紀元44年にエルサレムに戻ります。そしてヤコブは、時のユダヤ王アグリッパによって迫害、斬首されます。12使徒最初の殉教者となります。アグリッパは、イエス・キリストの復活の話を聞いていたので、エルサレムでの埋葬を許しませんでした。そこで二人の弟子が、遺骸を運び出し、船に乗せて、何処行く当てもなく地中海に船出しました。そして辿り着いたのが、スペインのガリシアの海岸でした。そしてその地で埋葬されました。
 その後、スペインの在るイベリア半島は、イスラム教徒によって占領され、ヤコブの墓もいつしか忘れ去られ、行方が判らなくなりました。9世紀になって、羊飼い、一説では修道士が星の光に導かれ、ヤコブの墓を発見しました。
 その知らせが当地の王国(アストゥリアス王国)アルフォンソ2世に耳に入り、直ぐに墓に赴き、そこに教会を建てました。これが最初の巡礼となりました。又その地をサンティアゴ・デ・コンポステラsantiago de Composteraと名付けられました(compo:野原、stera:星、星の輝く野原の聖人ヤコブという意味)。
 当時、イスラム教徒に対するキリスト教徒の国土回復運動、レコンキスタと呼ばれる運動と相まって、ヤコブの墓を訪れる巡礼者が絶えず、11~12世紀には、そのピークを迎えます。その後、戦争などの混乱により、巡礼は一時すたれましたが、近世に入って、巡礼者が増え始め、2017年の統計では年間30万の人々が、サンティアゴ巡礼に来るようになりました。

サンティアゴ巡礼路
 サンティアゴ・デ・コンポステラへ至る巡礼路は、数多く在ります。
・ポルトガルの道:ポルトガルからの道
・イギリスの道:北欧、イギリスから船でやってくる
・銀の道:スペイン南部アンダルシア地方からの巡礼
・北の道:フランス バイヨンヌから海岸線を歩き、サンティアゴに至る道
 フランス人の道は、フランスを出発点とする4本の道が、フランス人の道に合流します。フランス人の道は、今日巡礼者が最も多く通る道として知られていて、フランス サン・ジャン・エ・デポーを出発点とし、ピレネーを超えてスペインにはいり、サンティアゴに至る道で、全長約800kmとなります。1日の歩行距離を平均20kmとすると、大体40日かかる事になります。

 私の場合も40日間かかり、1日平均21kmとなりました。40日の内、5日間途中で休養日をとりました。ちなみに、四国お遍路は、全長1200 kmだそうです。

 歩行期間: 9月2日~10月11日 40日間 内5日間は休養日
 歩行距離: 760km 1日平均21.1km歩行

巡礼模様

巡礼の目的
 巡礼の目的は、様々です。純粋な信仰心から歩いている人もいますが、自分探しであったり、文化的興味であったり、自分の限界に挑戦するといった宗教的ではない目的を持った人も多いです。私が一番多く見かけたのは、人生の途中で今の生活に疑問を感じ自分を見つめ直す人(若い世代の人)、定年を迎え今迄の人生を振り返り、これからの新しい道を考えるために歩く人(中高年の人)が多かったです。

巡礼者
 私が歩いたのは、9月から10月でしたので学生は新学期にはいり余り見かけず、中高年の方が殆どでした。驚いた事に、女性が半数以上でした。ヨーロッパ人スペイン、フランス、イタリア人が殆どですが、米国、カナダ、南米の人も見かけました。アジア人では、韓国からの人が多く、韓国では、巡礼路がかなり有名,人気の様です。日本人は、残念ながら殆どみかけませんでした。

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巡礼路の道標
 巡礼路に沿って、ホタテ貝の印、進む方向の矢印の入った道標が約500mおきに立っています。巡礼者は、道標を見失わないよう進めば迷わずサンティアゴに到達できます。また、サンティアゴまでの残り距離数の入った道標もあります。市街地では、金属製のほたて貝が、歩道、石畳に埋め込まれていてそれに沿って進みます。

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巡礼手帳(Credencial) & 巡礼証明証(Compostela)
 巡礼には、巡礼手帳(Credencial)が必ず必要となります。日本でいう御朱印帳みたいな物です。巡礼宿に泊まる際、提示が求められ、無いと泊まることが出来ません。手帳は、最初の出発地の巡礼事務所、教会などで発行してもらいます。
 巡礼手帳には、自分が歩いた町々の巡礼宿、教会、Barなどでスタンプを押してもらいます。 巡礼の最後、サンティアゴ・デ・コンポステラに着いたら、巡礼事務所に行って巡礼証明書をもらいます。
 巡礼証明書をもらうための条件としてサンティアゴまでの最後の100km、自転車の場合は最後の200kmを踏破することが条件となります。フランス人の道の場合、サリアから出発すると最後の100kmとなるので、巡礼証明書をもらうために、サリアから出発する巡礼者が多く見かけます。

巡礼のシンボル ホタテ貝
 巡礼者は、巡礼者のシンボルとしてホタテ貝を身に着けます。
 何故、ホタテ貝なのかは、色々説があります。ホタテ貝は、昔から復活のシンボルでボッティチェッリのヴィーナス誕生という画で、ヴィーナスの足下にホタテ貝が描かれています。巡礼のホタテ貝は、巡礼によって自分が生まれ変わるという意味もあります。

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巡礼宿 Albergue
 巡礼路には、巡礼者のための巡礼宿Albergueが用意されています。宿泊料金は、8~12€、時には寄付の場合があります。大体1200円から1800円程度です。
 巡礼宿の半分くらいは夕食のサービスがあり、夕食が提供される場合、宿泊料金の他に13€かかります。宿には、大体、自炊設備が整えられ、節約したい人は、自分で食材を買ってきて調理します。
 部屋はドミトリー形式で、寝室、シャワー、トイレは共同です。寝室は、沢山の2段ベッドが並んでいて、大体は、男女同室です。荷物は、ベッド脇に置き、そこで着替え、荷物の整理等を行います。プライバシーは、殆ど無いと考えたほうが良く、反面、巡礼者同士の交流が図れ、色々な情報が手にはいりやすい。衛生面では、各ベッドに、紙シーツ、紙枕カバーが提供されます。安全面では盗難等の事故は聞いたことがなく、安心して泊まれます。一番問題なのは、一部屋に沢山の人が寝起きするため、イビキする人が必ず何人かはいます。気になりますが、大体、昼の疲れから知らない間に寝てしまいます。

 巡礼宿は、公営のものと私営のものとが在ります。公営は、自治体や教会、修道会などが運営しています。予約はできず先着順で、定員なり次第受付は締め切られます。
 巡礼宿Albergueの他に、民宿、ホテルが整備されており、料金も高目になりますが、時には一部屋を借りて、人目を気にせず体を休めるのも良いかと思います。

ピレネー超え
 巡礼路は、ピレネーのふもと、フランスSaint-Jean-Pied-de-Poから出発します。フランスとスペイン国境沿いにピレネー山脈があります。標高差1400mのピレネー越となります。

  朝七時、まだ暗い内に宿を出発しました。

 最初の3~4時間は、美しい山並みを見ながら写真を撮ったりして余裕が在りましたが、段々、ザックの重みが肩に食い込み、山頂に達する頃には、雨が降り始め、寒さの中疲れがピークに達します。下りも、雨でぐちゃぐちゃなぬかるみのなか、山を下ります。

 宿に着いたのが夕方六時過ぎで、結局11時間歩いたことになります。予定したRoncesvaleeesの宿が既に一杯で泊まれず、チャーターされたTaxiで近くのキャンプ場で泊まることになりました。最初から散々な一日でした。

 2日目も、Up Downが続く山道を歩く行程で、宿泊予定のスビリZubiriの宿に遅く着いてしまい、またもや満室で泊まれませんでした。そしてチャーターされたTaxiで3日目に着く予定のPamplonaに移動させられました。

 この最初の二日間、自分のペースがつかめず、こんなことでは旅を続けて行くことはできなくなり、又なにより旅を楽しめないと思い、パンプローナで二泊してゆっくり今後の事を考えることにしました。最大の原因は、ザック荷が重すぎることでした。

 幸いにも、その解決策が見つかり、荷物をトランスポートサービスの業者に預け、次の宿泊地に運んでもらう事にしました。
 以降、歩くときのザックは、最小限の荷物と軽くなり、自分のペースで進める事ができました。この最初の2日間の出来事は、この旅を台なしにしてしまう最大のピンチでした。

パンプローナ Pamplona
 パンプローナは、牛追い祭りで有名です。闘牛が街に放たれ、闘牛場迄の道を駆け回ります。男達は、闘牛の前を走り、その勇気を鼓舞します。毎年牛の角にかかり、けが人がでています。

  パンプローナから車で1時間の処に、日本への最初のキリスト教の伝道者であるザビエルが生まれたハビエル城があります。

パンプローナPamplona ~ ブルゴスBurgos
 ナバーラの台地と言われる大地をあるきます。

ナバーラの台地 Navarra
 ナバーラの巡礼路は、アップダウンが多く。山越えがかなりあります。平らなところは葡萄畑か麦畑で、背の高い木は全くなく、カンカン照りの中を歩きます。

ワインの泉
 エステージャの町の近くに、ワインの泉があります。巡礼者の為に地元のワインメーカーが無料でワインを提供してくれます。右の蛇口をひねれば、水aqua,左の蛇口をひねればワインvinoがでてきます。空いている時間は8時から20時迄。飲み放題。スペイン人の太っ腹に感謝します。

ロス・アルコス Los Arcos
 12世紀に建てられた教会

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サント・ドミンゴ・デ・カルサーダ
 聖人ドミンゴによって開かれた町で、カルサーダとは、石畳という意味です。

Saint Domingoの伝説
 Saint Domingoは、羊飼いから神に目覚め、修道僧になった人で、その後、巡礼者のために道路、橋、救護施設等の建設に生涯を捧げた立派な聖人であります。サントドミンゴには、次の様な伝説があります。

 昔、ドイツ ケルンという町から巡礼にやってきた司教の一家がありました。ひょんな事から息子が宿屋の下働き娘に惚れられました。つれなくしたら、可愛さ余って憎さ100倍。銀のコップをリュックの中に入れられ、泥棒として訴えられました。挙げ句の果てに、息子は死刑で縛り首になりました。

 悲しみにくれた両親が、巡礼を達成し、もう一度サントドミンゴに戻ってきたら、驚いた事に息子は生きていました。「サントドミンゴが下から支えてくれたので、助かった」と息子は言いました。両親は喜び勇んで、「息子を処刑台から下ろしてくれ」と裁判官に頼みました。「何を寝ぼけた事を言っている。死んだ人間が生き返るなんて、この皿の上のローストチキンが立って鳴くようなものだ」と言った、その時、ローストチキンは、スクッと立って、高らかに鳴いたのであります。息子は助かり、代わりに娘が吊されました。

 この後、にわとりは幸福のシンボルとなり、カテドラルで飼われるようになりました。この写真が、カテドラル 礼拝堂2階に飼われている鶏の小屋です。 面白いですね。

私の名は、ABY. 主人と共に巡礼しています。

修道院付属アルベルゲの夕食

朝食の定番 カフェ・オーレとクロワッサン
朝2時間歩いたところでBarでの朝食となります。

ブルゴス Burgos
 ブルゴスは、11世紀にカスティージャ王国の首都であった。
 レオン州ブルゴス県の県都 人口17万人

  カテドラルは13世紀(1221年)にフェルナンド3世の命によって建設がはじまり、完成は500年後。ゴシック様式。

モルシージャ・デ・ブルゴス Morcilla de Burgos
  豚の血入りソーセージ (中はタマネギとお米が入っている)

 サンタマリア大聖堂 Catedral de Santa Maria

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キリストの磔刑像 
 ブルゴスのサンタマリア大聖堂内に在るキリスト磔刑の等身大の像です。正面祭壇の右横に立っています。とてもリアルな表現です。私達の罪のあがないのために命を捧げるキリストの苦しみ、悲しみが、その顔の表情から感じられます。
 私達が普段見る象徴的な十字架よりも、より私達に訴えかけ、真に迫ってきます。毎日曜日 礼拝の度にこの像を見るとしたら、本当に心がひきしまる思いがすると想像されます。

 以降、ブルゴスからレオンに至る教会に入ると、より注意して見るようになり、これら等身大の磔刑の像が祭壇前横に掲げられるのが多く見られ、今回の旅で一番私の心に残るシーンでした。

Burugos ~ Leon
 スペインの約40%を占めるメセタと呼ばれる乾燥した高原の台地を歩きます。標高600m程度。
 畑以外なにもない、起伏のあまりない荒涼とした風景の中をあるきます。
 畑は、トーモロコシ、小麦、葡萄が栽培されています。

Castrojerizカストロヘリスの巡礼宿
 夕食風景。 私以外、女性ばかりでした。

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Fromistaフロミスタ サン・マルティン教会
 ロマネスク建築の代表作といわれ、11世紀(1066年)のナバーラ王妃の命によって建設されました。

巡礼犬
フロミスタから次の宿泊地カリオーン迄の20kmを巡礼のお供をして何度もあるいているというベテランの巡礼犬。

*上画面をクリックすると動画が再生されます。 スマホの機種によっては視聴できない場合があります。パソコンでの視聴を推奨いたします。

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Leon

レオン Leon
 カスティージャ・イ・レオン州レオン県の県都。人口20万の都市。

  巡礼宿の前の広場で、民族衣装の着た人達のお祭りがありました。

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 レオンのカテドラルは、13世紀初頭に着工されたゴシック様式の建築。
 カテドラルとは大きな教会と考えがちですが、教区の教区長、司教が、式を執り行う時に座る椅子が在る場所をいうのだそうです。今迄歩いたパンプローナ、ブルゴス、レオン、それにこれからの行程にあるアストルガ、最終地サンティアゴにカテドラルが存在します。

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 レオンのカテドラルは、特にステンドグラスが有名です。バラ窓、ステンドグラスには、植物の柄が描かれています。

Leon ~ Astorga ~ Sarria ~ Santiago de Compostera
 巡礼路最後の行程にはいります。森林の多い地帯を歩きます。

 途中、Astorga、Sarriaで休養します。
 Astorgaは、カテドラルもあり、小さい町で気に入ったので二泊しました。
 Sarriaは、サンティアゴまであと100kmとなるので、巡礼証明書をもらうために歩く巡礼者が加わり、巡礼者が一段と多くなります。

オルビゴ橋
 13世紀に建てられた物。
 スペイン版弁慶と言われ、15世紀ドン・スエロという騎士が、名も知れない姫への思いから、橋の真ん中陣取り、騎馬試合を挑み、橋を渡ろうとする者と戦い、1ヶ月の間橋を渡らせなかった。この試合の申し出を断る者は「臆病者」と呼ばれたことからこの橋の名がうまれた。

アストルガ大聖堂
 15世紀(1471年)に建設が始まったものの、完成したのは18世紀のこと。その為、後期ゴシックからバロックの各様式がみられる。

セブレイロ峠
 途中、レオン州とガリシア州境の巡礼路最後の難所:セブレイロ峠を越えます。

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サモス修道院 San Xulian de Samos
 ガリシア地方では、最も古い修道院。6世紀初め頃に建てられ、修道院は、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックと当時の著名な建築家によって修復、改築を繰り返された。中世になると、巡礼をとおして文化の中心としてヨーロッパで広く知られるようになる。

アルスーア 午後のひととき

 メリデの名物 タコ料理 主人の腕にはタコが踊る

 歓喜の丘から初めてサンティアゴ・デ・コンポステラのカテドラルを遠望

 サンティアゴ・デ・コンポステラ到着 10月11日

*上画面をクリックすると動画が再生されます。

Meaning 旅の目的
Why didi you come to Camino?  良く聞かれる質問です。
I came to meet with my God and my Diago。と答えるのですが、クリスチャン以外の人に理解されることは、難しいです。
私の心情を良く表すたとえ話があります。
イグナチオ教会の神父から聞いたお話です。1
ある人が、神に会えることを願っていた。ある晩、神から明日正午、山の上で会いましょうと告げられた。翌日、昼前に喜びいさんで、山に向った。途中で、わだちから外れて馬車が動けなくなっていた。助けを頼まれて、急ぎの用があるのだが、やむなく手伝った。その後、直ぐに山の上に向ったのだが、すでに正午が過ぎ、神に会えなかった。
イグナチオ教会の神父から聞いたお話です。 2
彼は、いつも神と共にあった。
ある時、洪水があって、溺れそうになっていた。助けのボートがやって来たが、彼は、神が助けに来てくれるのでといって、助けを断った。それから暫くたって、また、助けのボートがきたが、彼は断った。そしてその男は、とうとう溺れ死んでしまった。天国で、彼が神に会った時、どうしてあの時、助けてくれなかったのですかと、神に問い詰めた。神は応えた。あの時、2回もあなたを助けに行ったとこたえた。

私は、今回の旅を通して、私の信仰する神様、そしてヤコブ様とより近づくことができたと感じております。又、神様そしてヤコブ様の支えがあったらこそ、この旅を無事に終えることが出来たと思っております。

 最後に、信徒部そしてHP委員会からのLineを通して沢山の励ましをいただきました。異国の地でのひとり旅でしたが、孤独を感じることなく旅することが出来、とても感謝しております。