7月の青年会
7月21日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceを皆で歌ってから、ヨブ記(2:1〜10)より、「主が与え、主が取り去りたもう」をテーマに、並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) p.33-39より読み解き、その後、それぞれが生活の中で感じたことなどを自由懇談いたしました。
並木浩一訳「ヨブ記」は以下のサイトからダウンロードできます。
https://bp-uccj.jp/files/namiki_job_translation.pdf
担当:北原和夫牧師
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
「主が与え、主が取り去りたもう(第三回)」
ヨブ記2:1〜10
並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024年)p.33-39
北原和夫牧師
「ヨブの試練第2回」(並木「ヨブ記を読もう」 p.27-33)の概要
第1回の試練の後、神のところにサタンがやってきます。神はヨブが高潔で完全であることを話し、そしてサタンが神を唆し、何の理由もなしに神がヨブを飲み尽くすようにした(滅ぼすようにした)、と言って責めます。理由もなしに、神はヨブの敵対者となってしまったのです。しかし、サタンは抗弁して、今度はヨブの体を痛めつければ、きっと神を讃えるだろう(「讃える」という言語は「呪う」の反意的表現)、とふたたび唆します。そこで主はサタンの試みに同意します。ヨブの体は大変な皮膚病となります。妻がたまりかねて、「神を讃えて死になされ」と言います。つまり、神の与えられる苦しみを受け続けたら死に到る、そうしなさい、というのです。でもこれはヨブにとっては、「神を讃える」は「神を呪う」の反意的表現とも理解でき、「神を呪って死に到りなさい」という意味になるのです(並木先生p.38)。青年会でどなたかがラテン語訳聖書を調べたら「神を讃える」という訳でしたが、英語訳、新共同訳などでは「神を呪う」と訳出されていました。でも並木先生は、むしろ妻は、ヨブの信仰を信じて、「神を讃えるその信仰を貫きなさい」、と言ってヨブに寄りそった、と解釈しています。ヨブは神を呪うことをしないで、「われわれは神から幸いを受け取るのだから災いも受け取るべきではないか」と妻に答えるのです。こうして、神に従うというヨブの信仰は揺らぐことがなかったのです。著者は「ヨブは罪を犯さなかった」と結んでいます。
〈「何の理由もなしに」から思うこと〉
このことば(hinnnām)は、調べてみました。「無料で」、「理由もなく」、「いたずらに」といった意味の言葉だそうです。もともとhānan(恵む)という動詞からきた言葉だそうです[1]。「良かれ」と思って何かしてあげる、という善意の行いを表す言葉なのです。しかし、ここで「理由なしに」神を唆してヨブに敵対させるというサタンの行為は「良かれ」という善意によるものではなく、むしろ悪意に基づいた行為ではないだろうか。「何の理由もなしに」という言葉は、善意にも悪意にも使える言葉なのではないか、と思われます。
また「神を讃える」という言葉が「神を呪う」という反意的意味に使われることもあるということも思うと、ヘブライ語に基づく文化・社会は何とも不思議な社会であったのではないかと思うのです。つまり、一つの言葉で「讃美」と「呪い」を意味することができ、一つの言葉で「善意」と「悪意」を意味することができるのです。このヘブライ語の曖昧さはどういう意味があったのだろうか。
これからは、私自身の想像ですが、このように一つの言葉がさまざまな意味を包括していたことの背後には、「讃美」と「呪い」は本当に峻別できるものなのか、「善意」と「悪意」も本当に峻別できるものなのか、といった人間理解があったのではないだろうか。現実の世界に生きる人々にとっては、一つの言葉を発するときに、もっと混ぜこぜになった心情で動いているのではないだろうか。
でも、確かなことはあります。ヨブが神に対する罪を犯さなかったと明確に述べてあることです。ヘブライ語の「罪」はもともと「的を外す」「神が求めることから外れる」という言葉だそうです[2]。ヨブはその罪を犯さなかった、ということです。
[1]旧約聖書ヘブル語大辞典(聖文舎、1982年)p.472
[2]新共同訳聖書辞典(キリスト教出版社、1995年)p.326
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