6月の青年会

6月16日(日)礼拝終了後 会堂にて開催しました。
Amazing Graceを皆で歌ってから、ヨブ記(1:6~12)より、「主が与え、主が取り去りたもう」をテーマに、並木浩一著「ヨブ記を読もう」(日本基督教団出版局、2024年) p.27-33より読み解き、その後、それぞれが生活の中で感じたことなどを自由懇談いたしました。

並木浩一訳「ヨブ記」は以下のサイトからダウンロードできます。
https://bp-uccj.jp/files/namiki_job_translation.pdf                          

 担当:北原和夫牧師

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「主が与え、主が取り去りたもう(第二回)」
ヨブ記1:6〜12

並木浩一「ヨブ記を読もう」(日本キリスト教団出版局、2024年)

北原和夫牧師

「ヨブの試練第一回」(並木「ヨブ記を読もう」 p.24-27)の概要

 第1章6〜12節では、天における集まりにサタンもやってきます。主がヨブは完全で[1]まっすぐな[2]人であるというと、サタンは主に問いかけます。「ヨブは理由もなしに神をおそれるでしょうか?あなたはヨブの所有物を護っている。それを奪ったらどうなるかを見てみよう。」主も同意して、ヨブの大切にしているものを奪うことが始まります。
 最初は、ヨブの子どもたちが長兄の家で食事をしていた日に、シェバ人が襲い掛かり、牛とロバを殺し、若者たちも殺したという報がはいります。その直後にまた、神の火が降りてきて羊を焼き尽くし若者たちも焼き尽くしたという報が入ります。その直後に今度は、カルデア人が襲ってきてラクダを奪い、若者たちを剣で撃ち殺したという報がはいります。その直後には、大風がやってきて長兄の家を倒しその下敷きになって若者たちが死んでしまった、という報が入ります。こうしてヨブの子どもたちは全員殺されてしまったのです。せっかく第1章の冒頭で、神の怒りが子どもたちに及ばないようにと神に捧げた燔祭は無駄となりました。しかし、ヨブは悲しみの絶頂にありながら、地に伏して言います。 「私は裸で母の胎を出た、裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取り去りたもう、主の名は賞め讃えられよ。」と言い、ヨブは罪を犯さず、神に対しておかしなこと(不条理という理性的判断)[3]は言わなかったのです。

<理性的判断の自由と信仰>

 この不条理という理性的判断という言葉は、エレミヤ書23:13の「わたし(主)はサマリアの預言者たちにあるまじき行い[3]を見た。」にも使われていて「あるまじき行い」という主の判断を表します。またヨブ自身が神の不条理を嘆く場面があります。
24:12 町では、死にゆく人々が呻き/刺し貫かれた人々があえいでいるが/神はその惨状[3]に心を留めてくださらない。
 ヨブは、どう考えてもおかしいと思うことは不条理として自覚していたのです。主のなさることは全て正しいとしても、不条理で納得できないことだと判断する自由を主はヨブに与えられたのだと思います。詩編88編も詩人をめぐる状況の不条理を訴えている詩です。ヨブ記に通じるものがあります。

[1]ヘブライ語でtām 、咎めるべきところがないこと(blameless), アブラハムも「完全」とされる(創世記17:1)。”Theological Dictionary of the Old Testament”  (William B. Eerdmans Publishing Company, 1975) vol.XV, p.699.

[2]ヘブライ語でyāšar, 元々は幾何学的直線(straight )を表す言葉、同上vol.VI, p.463.

[3]いずれもヘブライ語でtipla, 同上vol.XV, p.740.

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