4月の青年会のお知らせ

4月21日礼拝終了後会堂にて11時40分~12時30分開催しました。
ギター伴奏でAmazing Graceをみんなで歌ってから、「信仰と躓き」についてお話しし、懇談をしました。参加者は14名。次回5月19日からは「ヨブ記を読もう」(並木浩一著)を読みます。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「信仰と躓き」
 キルケゴール「キリスト教の修練」
 (キルケゴール著作集 17、杉⼭好訳、⽩⽔社、1963 年)p.110-121

北原和夫牧師

わたしに躓かぬ者は、さいわいである。(マタイによる福音書 11:6)

まず、「躓く」ということばですが、原語ではskandalizoといい「スキャンダル」の語源で、跳ね返す、侮辱する、捕捉する、といった意味である。しかも上記の聖句の原語は「私のうちにあって『スキャンダル』されることのない人はさいわいだ」という書き方をしています。要するに「キリストの懐に跳び込もうとして跳ね返されない者はさいわいである」といった感じかと思います。跳び込もうとした人の側に、自分の価値観、世界観のこだわりのがあると、キリストの懐に入れずに跳ね返されてしまう。それほどに、イエスの姿(卑賤なる姿)、イエスの行い(癒し、受難)が、自分の価値観とあまりに違っていると、信仰に到れない、ということなのです。この聖句は、洗礼者ヨハネの使者がイエスのところに来たところから始まります。マタイによる福音書11:1~6には以下のように書かれてあります。

ヨハネは自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

「キリスト教の修練」(白水社版p.117)でキルケゴールは言います。躓きがなければ、主イエス・キリストが共に喜びたもう。

ああ、君が、信じる一人ひとりの者を喜びたもう彼の喜びはいかばかりであるかを思いみることができるなら、君は救われた者として躓きの場所を通り過ぎて行けるであろう。信ずる者を喜びたもう彼の喜びは、一人の人間が共鳴(共感)を見出すときの、相手から完全に理解されたときの、あの喜びに似通っている。つまり(似通っているものでそのものではないといったのは)、彼は普通の人間とは異なっているために、理解や共鳴(共感)というしかたではなく、信じられなければならないのだ。・・・信仰によるならば、・・・彼の喜びは、理解してくれる人を見出した人間の喜びのように大きいのだ。

人間的な理解・共感に留まる限りキリストとの出会いは「躓き」に終わる。ヘブライ人への手紙11:1には

11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

エピローグ:「キリスト教の修練」第二部の影響を受けた科学者のひとりが、20世紀の偉大な哲学者・論理学者であったウィットゲンシュタインでした。彼は論理学を極めてからは、小学校の教師となり、また人間の罪の問題との格闘を日記に記していた。その日記が1997年に刊行されて以来、多くの哲学研究者の研究により、キルケゴールの「キリスト教の修練」が大きな影響を与えたとされている。

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