3月の青年会

3月17日(日)、礼拝終了後会堂にて11時40分~12時30分開催しました。
最初にAmazing Graceを歌い、その後 北原和夫牧師のお話「イエスの招き(第三回 マタイによる福音書 11章28節)」。キルケゴール「キリスト教の修練」(キルケゴール著作集17、杉山好訳、白水社、1963年)p.96-105)から、「キリストと出会うことの同時性」の意味を読み解きました。
その後、懇談の中で、生活の中で感じたこと、次回以降の学びについての話し合いをしました。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「キリストと同時にあって出会うこと」
 キルケゴール「キリスト教の修練」
 (キルケゴール著作集17、杉山好訳、白水社、1963年)p.98-108

北原和夫牧師

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
(マタイによる福音書 11:28)

神と人との間はかけ離れておりながら、神は愛をもって御子イエス・キリストを世に降された。キリストは人の罪の赦しのために十字架への道を歩まれた。それは卑賤な姿であり、栄光ある神の子の姿ではなかった。それを目撃した人々に躓きを与えたのだ。キリストと同時代に生きることの困難さをキルケゴールは次のように述べている。

p.100 神と人間とのあいだには、無限の深淵のような差異が厳存する。それゆえに、[キリストと]同時代にあるという状況においては、キリスト者となること(神に似るものとして造りかえられること)は人間的に言って、最大の人間的苦悩、不幸、苦痛にもまさる苦悩、不幸、苦痛を意味し、そのうえ、同時代人たちの目には犯罪と映ったのである。

しかもイエスに同行した弟子たちあるいはイエスに癒しを求めた人々は、その時代の一般人から見ればとんでもない連中とさえ見えたのである。

p.103 きみがキリストと同時代にあることに耐えられないならば、すなわちきみが巷(ちまた)に出て行って、目のまえにこのとんでもない連中を従えている神を見ることに耐えられないならば、そしてまたそのような者の前に平伏して彼を拝することがきみのくぐらねばならない狭き門であることに耐えられないならば、きみはほんもののキリスト者ではない。[つまり、卑賤なるすがたで、卑賤な人々と共に過ごしている神をそのときその場で受け入れることができなければ、キリスト者ではない。]

p.104 世の終わりに至るまで、おのおのの時代にあっておのおのの人が、キリストと同時代にいたおのおのの人と同じところから始め、キリストとの同時性の状況において修練することによって、それぞれの最初の「いろは」から学び取らなければならないものである。・・・人間的熱烈をもってもどうにもならない。神の御前に真実であることが、最初にして最後のものである。自分がどのような者であるかを真実に告白し、神の御前に絶えず真実をもって課題を凝視するならば[つまり、聖書に書かれてある歴史ではなく、目前の現実の課題に真実に向き合うという同時性]、その歩みがたとえどのように遅々としたものであっても、真実なものが獲得される・・・。

p.107教訓 ただひとえに罪の自覚だけが、戦慄べきその恐ろしさの中へ・・・人を追い込んでくれるのである(他方から見れば恵みがそこに追い込む力なのである)。

神の絶対的な力、絶対的な愛、そして罪の自覚さえも神の恵み(わざ)とする考え方が「箴言」(三軒茶屋教会の聖書研究祈祷会で読まれている旧約聖書箇所)にあるように思う。

箴言16:4 主は御旨にそってすべての事をされる。逆らう者をも災いの日のために造られる。16:5 すべて高慢な心を主はいとわれる。子孫は罪なしとされることはない。16:6 慈しみとまことは罪を贖う。主を畏れれば悪を避けることができる。16:7 主に喜ばれる道を歩む人を主は敵と和解させてくださる。

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