2月の青年会

2月18日、礼拝終了後会堂にて11時40分~12時30分開催しました。
最初に讃美歌を歌い、その後5分ほど北原和夫牧師のお話「イエスの招き(第二回 マタイによる福音書 11章28節)」。キルケゴールの「キリスト教の修練」(白水社 キルケゴール著作集17)から読み解きました。テーマは「罪の自覚においてのみ門は開かれている」(同書106-109ページ)。
その後は懇談を行いました。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「罪の自覚においてのみ門は開かれている。」
 キルケゴール「キリスト教の修練」より
北原和夫牧師

マタイによる福音書 11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 11月21日の青年会では、私たちを招いてくださる方は、私たちと同じような卑賤な姿でおられる。なぜなら、その方は私たちの煩いと悩みを共に知ろうとしておられる。それはイザヤ書53:3〜6に描かれてある「主の僕」の姿である。むしろ私たちよりももっと卑賤な姿で傷つき十字架に向かわれた。そして復活された方は、私たちを招いておられる。むしろ「さあ、おいで」と声をかけられる。いな、むしろ、その方は待つだけでなく、探しに出て生きたもう(ルカ15:11〜20)、牧者が迷った羊を探すように(ルカ15:4〜7)、また女が無くした銀貨を捜すように(ルカ15:8〜10)。どんなに遠いところでも、出ていかれる。主のご降誕は、神であることから人となることへの無限に遠い道を降ってこられたのである(1月21日のメモ)。

 この恵みを如何にして受け取ることができるのか。当時のデンマークのキリスト教会の事情を知らないと分かりにくいところであるが、当時(19世紀半ば)デンマークではロマン主義的神学が優勢であったという。本訳書の最後の「解説」に以下のようなことが書かれてある。宗教において、神と人との間には、質的な差がなく、両者は直観と感情によって直接的に合一できるものであり、イエスはその合一を完璧に表現したものだ、という神学(Schleiermacher)が現れたそうです。おそらく信仰的生活をしているうちに、あるいは神学の研究・研鑽を積めば、神的な状態に到達できるといった感じの神学かと思います。キルケゴールは、神と人とは絶対的な隔りがあり、一人一人がキリストを通して自身の罪を意識することを通してのみ、神に出会うことができるという主張をしている(p.108)。しかも古い歴史の人物として記録されているキリストではなく、生きた現実の中で出会うキリストに向きあわなければならない、というのです。

 「万民皆罪人」という教義を作った神学は、歴史を論じているだけであり、「君自身にとって」という問いかけを忘れているのではないか(p.101)。さらにp.103で次のようにキルケゴールは述べている。

 きみがキリストと同時代にあることに耐えられないならば、その現実の姿を直視することに耐えられないならば、・・・目の前にこのとんでもない連中を従えている神を見ることに、・・・彼を拝することが君のくぐらねばならない狭き門であることに耐えられないならば、君は本当のキリスト者ではない。・・・

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