1月の青年会

1月21日、礼拝終了後会堂にて11時40分~12時30分開催しました。
最初に讃美歌を歌い、その後5分ほど北原和夫牧師のお話「イエスの招き(マタイによる福音書 11章28節)」。キルケゴールの「キリスト教の修練」(白水社 キルケゴール著作集17)から読み解きました。
その後は懇談を行いました。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

イエスの招き:キルケゴール「キリスト教の修練」より

北原和夫牧師

マタイによる福音書 11:28
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

昨年11月19日の青年会で議論した「イエスの招き」について、再び取り上げてみます。まず、ギリシャ語の原文では、「来たれ、私のもとに。すべての労苦して重荷を負っている者たちよ。わたしはあなたたちを休ませてあげよう。」となっています。さらに「来たれ」という言葉は「来る」という動詞の命令形というのではなく、「さあ!」とか「どうぞ!」という誘いの呼びかけの副詞なのです。「どうぞ、私のもとに」という呼びかけなのです。

キルケゴールは「キリスト教の修練」[1]の中で、「すべての労苦して重荷を負ったものたちを招くための条件についてp.21で以下のように述べています。

この人たちを・・・自分のもとに招きうるためには、自分が同じ生活を送らなければならない。最も貧しい人と同じ貧しい人として、民衆の中の卑い人と同じように卑め、生活の煩いと悩みとを具に知り、・・・同じ境遇のもとにいなければならない。・・・

これはイザヤ書53章3〜6の「主の僕(しもべ)」の記事を想起させます。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。

そのような僕の姿をとり、受難されて復活された主イエスは君たちを待っている、いな、君たちを探しにいくのだ。そのことをキルケゴールはp.30~32で次のように描いています。

来たれ、みんな、みんな、君たち全ての人よ、彼のみもとには休みがある。そして、彼は何一つ難しいことは言われない。彼はただ一つのことを成したまうだけである。彼はみ腕を開きたまう。・・・・・そして君が自ら罪人であると知っているならば、彼は君の罪を問いたまわず、・・・・・かえって君が彼の身元に身を隠すことを許したもうであろう。そして君が彼のうちに身を隠すならば、彼は君の罪を覆いたもうであろう。なぜなら、彼は罪人の友でありたもうのだから。一人の罪人がいるならば、その噂が耳に入るならば、彼は立ち止まって、み腕を広げ、「来れ」と告げたもうだけではない。いな、彼はそこに立ったまま、父が放蕩息子を待ったように、待ちたもうのだ。いな、むしろ、彼は立って待たず、探しに出て生きたもう(ルカ15:11〜20)、牧者が迷った羊を探すように(ルカ15:4〜7)、また女が無くした銀貨を捜すように(ルカ15:8〜10)。否、否、彼は出て生きたもうた、どんな牧者よりも、どんな女よりも、無限に遠いところまで。まことに彼は神であることから人になることへの無限に遠い道を行きたもうたのである。罪人を探すために、彼はこの道を行きたもうたのである。

「無限に遠い道」とは、主イエス・キリストのご降誕、すなわち、天の父なる神の御もとから地上に降りてこられた道行を表す。天と地との間は、我々人間にとっては、無限に遠い道であり、神である御子であるからこそイエスは降りてこられたのである。

[1]「キルケゴール著作集17キリスト教の修練」(杉山好訳、白水社、1963年)

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