11月の青年会

11月19日は礼拝終了後会堂にて11時40分~12時30分開催しました。
最初にAmazing Graceを歌い、その後5分ほど北原和夫牧師のお話「イエスの招き」(マタイによる福音書 11章28節)、そして懇談を行いました。
参考:キルケゴール著「キリスト教の修練」(キルケゴール著作集17、杉山好訳、白水社、1963年刊)

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「イエスの招き」 北原和夫牧師

マタイによる福⾳書 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

ギリシャ語の原⽂では、「来たれ、すべての労苦する者、重荷を負う者、私のもとに来なさい。わ たしはあなたたちを休ませる。」となっています。まず「来たれ」という、イエスご⾃⾝の呼びか けから始まるのです。労苦する⼈々、重荷を負う⼈々全てに呼びかけています。安らぎを求めて くるのを待っているのではない。イエス⾃⾝から呼びかけてくるのです。そのようなイエスの呼 びかけを「恵み」として受けとめるとは如何なることかをキルケゴール[1]は論じます。
冒頭の「刊⾏者の序⾔」が何とも分かりにくいのですが、⾔わんとしていることは、仮名 S. K. なる著者(もちろんゼーレン・キルケゴール)は、キリスト者となる条件を呵責なく吊り上げた というのです。キリスト者となるということは、福⾳という「恵み」を学びうけとめるというの ではなく、⾃分が「恵み」を必要とする⾃覚が先にあって福⾳の恵みに逃れざるを得ないという ことから始まるのだ、というのです。
「希求」では、イエスキリストが地上を歩んだのは1800年前の歴史的出来事であるが、地 上に信仰がある限り過去のものとはならない。信仰とはイエスと同時であることなのだ、という のです。イエスの地上で歩まれた本当の姿、卑賤の姿であり、癒し、忍耐し、復活の栄光の姿を しつつも、「私に躓くな」と警告を発した⼈でもあったのだ。⼀⼈⼀⼈が⽣きていく中で、イエ スと出逢いながら道を求めていくという信仰のありかたをキルケゴールは述べようとしている のであろう。⼀⽅、訳注2によれば、キルケゴールの時代に思想界はヘーゲル哲学によるキリス ト観が主流だったらしい[2]。
「招き」では、救いを求める⼈を援助すること⾃体が愛であるのに、さらにイエスは⾃ら「来 れ」と⼿を差し伸べておられる。まるで、救いたいという希望に駆られていて、救いを受け取っ てもらうことでイエス⾃⾝が救われてるようだ。
I(p.18)では、「来たれ」について論じます。救うべき⼈を⾃ら探そうとするイエスは⾃分を 投げ出される。投げ出すという⾏為の⾔葉はロマ書で「イエスは、私たちの罪のために死にわた され、私たちが義とされるために復活させられたのです。」
「救う⼒を持ちたもう彼、なくてはならぬただ⼀つのもの(信仰)をもって救いたもう彼、本 当の意味で死に⾄らしめるただ⼀つの病(罪)から⼈を救い出したもう彼、ただ⼀⼈の救い主な る彼は、⼈がやってくるのを待たれず、・・・⾃分の⽅から来たもうのである。」そして「全て来 たれ」(誰でも)「私のもとに来たれ」(私は君たちと同じようになるのだ)。
「私のもとに来なさい」というためには、招く⼈が招かれる⼈と同じ境遇とならなければならな い。そのことによって、招かれた⼈は⾃分の状況を理解してもらえて安らぎを得ることができる。 したがってイエスは全ての苦しむ⼈々と同じくなるように定められていたのだ、とキルケゴール は⾔うのです。これはまさにイエスの受難の意味を表し、イエスの受難が労苦する者、重荷を負 う者に対する愛からくることを⽰しているのです。

[1]「キルケゴール著作集17キリスト教の修練」(杉⼭好訳、⽩⽔社、1963年)
[2] ヘーゲル哲学について私は全く不明。おそらく歴史は全体として必然的に進歩に向かうという歴史観だっ たのかもしれない。興味深いのは本書が刊⾏された 1848 年に「共産党宣⾔」が出ている(巻末の訳者解説)

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