10月の青年会

10月15日は礼拝終了後会堂にて11時40分から開催しました。最初にAmazing Graceを歌い、その後5分ほど北原和夫牧師のお話「キリスト者の自由」(コリントの信徒への手紙9:19)、そして懇談を行いました。

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「キリスト者の自由」 北原和夫牧師

ヨハネによる福⾳書 8:31
イエスは、御⾃分を信じたユダヤ⼈たちに⾔われた。「わたしの⾔葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟⼦である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを⾃由にする。」
⽇本の国会図書館法には「真理がわれらを⾃由にするという確信に⽴つて、憲法の誓約する⽇本の⺠主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設⽴される。」と書かれてあります。 パウロは「キリスト者の⾃由」をどうとらえているのか。
コリントの信徒への⼿紙⼀ 9:19
わたしは、だれに対しても⾃由な者ですが、すべての⼈の奴隷になりました。できるだけ多くの⼈を得るためです。
ローマの信徒への⼿紙13:8
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。⼈を愛する者は、律法を全うしているのです。
ルター「キリスト者の⾃由」[1]の冒頭の「イエス」の項
第⼀ キリスト者とは何であるか、またキリストが彼のために確保して与えて下さった⾃由とはどんなものであるか。これについては聖パウロも多く書いているが、根本から分かるように、私は次の⼆つの原則を挙げてみたい。キリスト者は全てのものの上に⽴つ⾃由な主⼈であった、誰にも従属していない。キリスト者は全てのものに奉仕する僕であって、誰にも従属している。この⼆つの原則は上記の聖パウロの⼿紙(コリントの信徒への信徒への⼿紙⼀9:19及びローマの信徒への⼿紙13:8から明らかである。後者で、愛とは、その愛する者に奉仕し、また従うものである。
だからキリストについても、「神は御⼦を遣わし、⼥から⽣まれさせ、律法に従わせられた」(ガラテアの信徒への⼿紙4:4)とある。・・・

 ヨハネによる福⾳書で、イエスが⾔いたかった⾃由とは、罪からの⾃由でした。神の⺠として主イエスと共にあるならば、本当に⾃由なのだ、というのです。さらにパウロはコリントの信徒への⼿紙⼀で、「神の⺠として⾃由なのだが、愛をもって⺠には奴隷として仕えた。神の⺠として招くためだ。」というのです。
 この考え⽅は、16世紀の宗教改⾰者ルターの「キリスト者の⾃由」には明確に継承されています。第⼀で「キリスト者の⾃由」を定義します。キリスト者はキリストに倣うことによって義とされるゆえに律法からは解放されている。そして最後の結論として、「第30 キリスト者は⾃分⾃⾝のうちに⽣きるのではなく、キリストと⾃分の隣⼈とにおいて⽣きる。すなわち、信仰を通してキリストのうちに⽣き、愛を通して隣⼈と共に⽣きるのである。こうして罪と律法から解放されていることがキリスト者の⾃由なのだ。」

[1]「世界の名著18 ルター」(松⽥智雄編、中央公論社、1969年)p.48~77
[2] 神の御⼦イエスがこの地上に⼀個の⼈間として⽣きたという歴史的事実に寄せた神の愛について、キルケゴール著作集第17 巻「キリスト教の修練」(杉⼭好訳、⽩⽔社、1963 年)、p.50-51

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