9月の青年会
2023年9月17日、礼拝後会堂にて開催しました。
テーマは「 コイノニアという教会の在り方 」(使徒言行録2:42)についてです。お話は北原和夫牧師。
⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂
「コイノニアという教会の在り方」 北原和夫牧師
使徒⾔⾏録2:42~47
彼らは、使徒の教え、相互の交わり(koinonia)、パンを裂くこと、祈ることに熱⼼であった。すべての⼈に恐れが⽣じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが⾏われていたのである。信者たちは皆⼀つになって、すべての物を共有(koinos)にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎⽇ひたすら⼼を⼀つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真⼼をもって⼀緒に⾷事をし、神を賛美していたので、⺠衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる⼈々を⽇々仲間に加え⼀つにされたのである。
ロマ書14:14
それ⾃体で汚れた(koinos)ものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その⼈にだけ汚れたものです。
使徒⾔⾏録2章には、初期の教会の状況が表されています。信徒の相互の交わりにはkoinonia とという⾔葉が使われています。そして全てのものが共有されていたというところで、「共有」にはkoinosという形容詞が使われており、koinoniaとkoinos は同じ語源からきた⾔葉と思われます。 ところが不思議なことに、koinos はローマの信徒への⼿紙14章では「汚れた」という意味にも使われているのです。 信徒の間にある⾷べ物などに関する違いを取り上げて、互いに他者について「汚れている」と⾔い合うことはやめよう。なぜなら神の創造によるものについて、それ⾃体で汚れたものは何もないのだから、とパウロは⾔うのです。koinos が「共有する」という意味と「汚れている」という⼆つの意味を持つのは何故か、不思議な感じがします。
いろいろと調べてみる[1]と、koinos の元々の意味は、「全ての⼈に開かれている」ということのようなのです。それから発展して⼆つの意味になります。 ⼀つは、「公共の」とか「共同の」という意味であり、koinonia という⾔葉のもとになります。「誰にでも開かれている」ということから「不純なものが混⼊する可能性がある」という意味で、「不純な」とか「汚れた」という意味にもなるのです。パウロの時代のユダヤ教では、律法をきちんと守ることのできる⼈たちが信仰共同体のメンバーでした。実は、ヘブライ語でも「汚れた」(hōl)は元々は「誰でも受け⼊れる」という⾔葉でした。多様性を認める⾔葉が、いつの間にか差別を⽣み出すというのは、興味深いところです。
[1]Theological Dictionary of the New Testament, vol.III, p.789-797
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