8月の青年会

2023年8月20日礼拝終了後会堂にて開催しました。
お話は北原和夫牧師による「知恵について」

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「知恵について」 北原和夫牧師


旧約聖書続編シラ書1:1〜4
1:1 すべての知恵は、主から来る。主と共に永遠に存在する。
1:2 浜辺の砂、⾬の滴、永遠に続く⽇々、だれがこれらを数え尽くしえようか。
1:3 天の⾼さ、地の広さ、地下の海、知恵の深さ、だれがこれらを探りえようか。
1:4 知恵は、他のすべてのものに先⽴って造られ、その悟る⼒も、永遠の昔から存在している。


⼈は世界を完全に理解できるのだろうか、という問いは古くからありました。シラ書は紀元前2世紀の前半頃のイスラエルの知識⼈によって書かれたと⾔われています。実は同じようなことを近代物理学の祖とも⾔えるニュートンが次のような⾔葉を残している。
I was like a boy playing on the sea-shore and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.
 アウグスティヌス(354-430)は「三位⼀体論」の中で、知識について、⼈の知識(Scientia、サイエンスの語源)と神の知恵(Sapientia)とを区別することを提案しています。神の知恵は「神性への関与(participation)」によってのみ与えられるものである。つまり神のわざに関わるときに啓⽰によって分けていただくことになる。⼀⽅サイエンスは、⼈の⼒で得ることのできる知識である、というのです。同じ時代にギリシャ世界に在った教⽗ニュッサのグレゴリウス(335-394)は、「神性への関与」に対してmetousia というギリシャ語をあてました。⽂字通り、本質(ousia、すなわち神性)への関与です。⼀⽅で、真理を求める⼈々の関わり合い(分かち合い)を「コイノニア(koinonia)」と呼びました。これはまた教会をも意味する⾔葉です。⼆つの「知」、すなわち⼈のわざでは到達し得ない「知恵」(神の知Sapientia)と⼈のわざによって到達し得る「知識」(サイエンス、scientia)があるということ。そして、真理に到る道筋としての「関与」として、「神性への関与」(metousia)と、真理を求める⼈々の間の関与、「分かち合い」(koinonia)があるということを意識することが⼤切なことと思うのです。。
この知識の在り⽅について20世紀の哲学者フッサールも指摘しています。
哲学つまり学問はそのあらゆる形態においてより⾼い合理性への途上にあるのであり、それは、その不⼗分な相対性を発⾒しつつ、真の完全なる合理性に⾏き着かんとする苦難、それを闘い取らんとする意志へと駆り⽴てられている合理性なのである。だが、その合理性はついには、そうした真の完全なる合理性とは、無限の彼⽅に存する理念であり、したがって事実上は必然的にそれへの途上にあるしかないということを発⾒するのだ・・・[「ヨーロッパ諸学問の危機と超越論的現象学」(細⾕恒夫訳、中央公論社、1974年)(第73節)]
「分かち合い」koinonia によって、フッサールの「苦難」は「喜び」に変えられるのです。


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