6月の青年会

2023年6月18日礼拝終了後会堂にて開催しました。
お話は北原和夫牧師による「希望によって救われている」

⁂青年会は毎月第3日曜日、主日礼拝の後に会堂にて30 分~1時間ほど。誰でも参加自由です⁂

「希望によって救われている」北原和夫牧師


聖書:ローマの信徒への⼿紙 8章24〜25節

8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。⾒えるものに対する希望は希望ではありません。現に⾒ているものをだれがなお望むでしょうか。
8:25 わたしたちは、⽬に⾒えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

確かに聖書の原⽂は「なぜなら、わたしたちはその希望によって救われている」と読めます。しかし注意して読むと、「その希望によって」と訳されているところは、「その希望」が与格(・・・に)なので「その希望に」と書いてあるだけで、これは「その希望によって」とも読めるし、「その希望において」とも読めるし、「その希望のうちに」とも読めます。「救われている」という⾔葉も、特殊な時制(アオリスト)が使われていて、「救われた」ということが過去において⼀度起こったということを述べているのです。「パウロ書簡」(⻘野太潮訳、岩波書店「新約聖書I V」、1996年)の注(p.30-31)には「パウロが『救われる』という⾔葉を使うときは、ほとんど未来形を⽤いるのだが、この箇所だけは過去の⼀回限りの出来事を表す「アオリスト」という時制になっている。」との指摘があります。そうすると、私なりに解釈すると、「なぜなら、その希望において、わたしたちは救われた。」という⽂章になります。「その希望」とは18節の「将来わたしたちに現されるはずの栄光」の希望であり、23節の「神の⼦とされること、体の贖われること」であり、「救われていること」が将来具体的に起こることなのです。24節は、「なぜなら、わたしたちは救われたのだ。でもそれが⼀体どんなことなのか、私たちにとってまだ⽬にしない希望なのだ。」という意味にとるのが⾃然と思われるのです。
 いろいろと調べてみると、⼀番ピッタリするのが、フランスで出版された⼆つの聖書 La Sainte Bible (Alliance Biblique Universelle, 1992)とNouveau Testament(TraductionOecuménique de la Bible, 1975)であり、 ”Car nous avons été sauvés, mais cʼest encoreen espérance”(なぜなら、わたしたちは救われているのですが、まだそのことは希望のうちにあるからです)と訳されています。 ドイツの聖書註解書「N T D新約聖書註解6 ローマ⼈への⼿紙」(杉⼭好訳、NTD新約聖書註解刊⾏会、1969年)では「私たちの救いとは、希望にひたすら賭けること以外にはない。」と意訳されてあります。
 新共同訳を読むと、「希望によって救われる。だから忍耐して希望を持ち続けなさい。」とも読めてしまいます。でも⼤事なことは、その前提として「すでに救われた」ということがあるのではないかと思うのです。しかしその救いはまだ希望のうちであって全開していない。でも救われたことは事実なのだ。その信仰を希望としてもつことによって現実の事態に耐えていこう、とパウロは私たちを励ましてくれているように思うのです。

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