「ひとごと」と「わがこと」

 熊本や大分で大きな地震が続いている。さまざまな困難のさ中にある人たちに、必要な手当てや支援が届くことを願ってやまない。
 今般の地震は、識者たちの常識を打ち破る現れ方となった。前震、本震、余震といった概念は、今後語れなくなるだろう。
 阪神淡路大震災や東日本大震災も、想定外の出来事の連続だった。「ここでは大きな地震は起こらない」、「この建造物は地震で倒れない」、「ここまで津波は来ない」、「原発が壊れることはない」。そうした考えは、すべて誤りであったことを教えられた。
 いつも後になって取り上げられることだが、古文書の研究では、似た規模の自然災害が同じ土地で幾度も起こっていたことを伝えている。しかし、後代の人々はそれを「ひとごと」のように聞き過ごしてしまう。
 過去の教訓が受け継がれていくこと自体が、実行維持の困難な課題なのだ。わたしたちの誰もが、今の目の前の出来事や事柄と向き合うことで精一杯なのだから、いつ起こるか分からないような話はほぼすべて「ひとごと」になる。
 今回の連続大地震でも、わたしたちは再び教えられている。その「ひとごと」は、ただちに「わがこと」になりうる。自然災害だけではなく、あらゆる災いや不幸は、ある時、容赦なく「わがこと」となる。
 わたしたちは、この現実に四六時中恐れおののいては生きてゆけないかもしれない。大切なのは「備え」ができているかどうかに尽きる。モノの備えに限らず、心の備え、心構えができているかどうかである。
 先週、海外にいる知人からわたしの安否を確かめるメールが届いた。曰く「地球自体がいつも動いているのだから大地震なんていつどこででも起こり得る」。宇宙から見れば、確かに地球全体はいつも脈打っているように動き続けている。
 大規模な自然災害を前にして、人間ができる備えは限られたものとなるだろう。完璧な備えなど無理かもしれない。しかし、「ひとごと」を「わがこと」として受け止めようとすれば、落ち着きある心構えはおのずと整えられていく。
 よくよく考えてみれば、教会は「ひとごと」を「わがこと」として受け止めようとしている。普段通りの日常生活の中で、誰もが避けられない災難や困難、予想外の試練や困窮、無自覚なままに踏み込んでしまう悪や過ちに、敢えて目を向けようとする。
 世において幸いと満足をいつも求めているわたしたちは、立ち止まって心鎮めて受け止めたい。世と人にまつわる出来事には、すべて始まりがあり、やがて終わりがある。これは「わがこと」に他ならない、と。

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