正念場を生きる

 東日本大震災のあと、ほぼ毎年、被災地でのボランティア活動に参加してきた。今年も7月と8月に教会関係の方々と共に宮城県南三陸町での活動に参加した。かつてあった町並みに近づいていく復興というよりは、津波の被害を受けた場所ではすべてを最初からやり直し、造り直していく・・。この道を進むのは、厳しいことだと改めて思わされた。
 基幹産業である養殖漁業がまちづくりの要となるのは知られている。三陸地方の沿岸はどこもそうだろう。生活のすべを全て失いながらも地元で奮闘している養殖漁業に携わる方の声を聞いた。
 「町の復興も、養殖漁業も、この1年から2年ほどが正念場さぁ。あの時のことを思い出していづまでも悲すんでなんがいねぇで、未来へ向がって進むしかぁねぇさ!」と力を込めて語ってくれました。夕焼けに照らされた漁港を見下ろす高台に立ちながら、温厚な笑顔の奥に涙が流れていた。
 いったい、正念場を生きる・・・その現実に立たされ、実際にその日々を生きぬこうとしていく経験を、どれだけの人がするのだろう。
 正念場とは、もともと仏教の言葉らしい。雑念を振り払って仏道、修行に専念する意味らしい。転じて、その本質や真髄を発揮させるための大一番の時、あるいはその真価を問われる重大な局面といった意味になった。
 人にはそれぞれの形で、何らかの正念場がある。出産、出会い、恋愛、結婚、育児、離婚、試験、喪失、就職、商談、失業、闘病、別離、老後・・・。一度や二度ではない、ここ一番の重大な局面が、時に静かに、時に荒々しく迫ってくる。
 その正念場を受け入れ、乗り越えようとする意志が生じるのは、未来への決心が固まった時なのだろう。未来を見据え、とにかく未来へ進もう、今日はひとまず明日を迎え入れようと、決心できている。過去を完全に振り切って前に進む道へと向かい始める・・・。そのためには、未来にある幸いに信頼して自らを託していなければなるまい。
 聖書は、今、現に生じている出来事は、すべて一時的なもの、ととらえている。今の悲しみも苦しみも、すべていっときのこと。神が起こす次の新しい出来事、未来に現れ出る出来事に信頼して目を開いているよう説いている。
 次の新しい出来事の具体例が、旧約聖書ではイスラエル王国の興亡と預言者の活躍であり、新約聖書では救い主誕生のクリスマスであり、十字架で死なれた主イエスが葬られた墓からよみがえったイースターである。そして、今日の教会の時代であろう。
 教会は、この世、この国、この社会、そしてその人の正念場が、次の扉を開いていく神の御業であると証言している。
 今の正念場を生きる。懸命に生き抜く。その人を支えようとする祈りがささげられるとき、祈り人もまた励まされ、祈り人にも奮闘する勇気が与えられる。教会では、次の新しい不思議なことが、人の目には触れないところで静かに進行している。

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