今、どこにいるのか?

 平日の昼さがり、渋谷の街を中学生らしい男女5人ほどのグループが探検している姿を度々目にした。持ち物や互いの会話から修学旅行で東京へ来ているとわかる。
 最近の中学校の修学旅行は小グループに分かれて、グループごとに一日の行動プランを立てるスタイルが多いらしい。
 地図を片手に時間を気にしながら先頭を歩くリーダー。周りの様子を確かめるようにしているのはサブリーダーか。グループから離れまいとしているのかどこか不安げな様子。面倒そうに歩きながら「早く東京○○○ランドへ行きたぁーい」と愚痴をこぼしているのもいる。
 別の日に地下鉄の車内で同じようなグループに乗り合わせた。「次は渋谷?渋谷?」と不安そうに駅名を確かめようとしている。「渋谷はこの次の駅ね」と私が話しかけると、少し驚いた表情になって「ありがとうございます」とお礼を言われた。渋谷駅に着くと人々の間に紛れていった。
 東京へ来たのは皆、初めてそうだった。みな、寡黙になって渋谷の街を体験している。おしゃべりしながら歩くほどの心の余裕はなさそうだ。渋谷のほかはどこへ行くにせよ、新しい体験と発見をもたらす計画を達成したに違いない。
 しかし、どの生徒さんも自分たちだけで地下鉄を乗り継いで予定地を巡って宿に帰り着くには勇気がいることだっただろう。彼らにとっては「今、自分たちはどこにいるのか」を常に確かめておかないと、道に迷ってしまう不安にかられ続けたに違いない。
 それは、何も修学旅行で東京に初めてやってきた中学生たちだけの話ではないだろう。馴れ親しんだ土地にいるとしても、「自分が今どこにいるのか」を見失ってしまう事態は、誰にでも起こりうる。
 プラン通りにはいかなくなり自分が何をしようとしているのか分からなくなる。何も言えなくなってしまう。想定外の事態の当事者となって進んでいける道を見失う。今までの実績が全く意味と価値を失うような事件に見舞われる。
 そうしたことは、経験豊かで高度な技術を体得している登山家であっても、ごく一般的な山で遭難してしまうように、特に自分にとって自信がある領域での「見失い」によって生じやすい。
 聖書に触れ、教会での礼拝を体験することは、「今、自分はどこにいるのか」「自分はここへ向かおうとしているのか」を常に確かめていこうとする生き方に近づくといえる。
 教会は何か教条的なものを強制する場所でない。教会は、むしろ、自分という唯一固有の人格と向き合って自分についての新しい発見を重ねていくところと言えるだろう。
 勇気を込めて自分に立ち戻る場所であり、自分にも進んでいける道がなお開けているのを見出す。不安から喜びへ。恐れから感謝へ。未知から既知へ。
 それが、教会に集う人々の心の奥底で起こっている。

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