道行く人々―世の現実のさ中で―

 教会前の通りは、人通りが絶えない。特に朝夕の通学・通勤時間帯は、足早に駅へ向かう人々が途切れなく続く。
 朝は、皆そろって先を急いでいる。昼間は、近隣で働いている人たちの往来がある。高齢者がゆっくりとした足取りで通り過ぎていく。教会の花壇を見つめる人もいる。教会案内をしげしげと眺めていく人も少なからずいる。
 次の日曜日の礼拝の説教題を見て、「これじゃ何をやっているのかわかんないよ」と不満げに語りかけてくる年配の方。「確か○○さんという人がいたはずだが、元気にしておられますか」と声を掛けてくる人もいる。
 先日、花壇に散水していたら年配のご婦人から声をかけられた。「この花は、何という花?」
 残念ながらわたしは草木の名前に疎い。「これですか・・・。わたしもわからないんですよ」。花壇のお世話をしている教会員の方から学んでおかばよかったと思った。
 ご婦人は咲いている花にジョウロで水をやる方法を教えてくれた。確かに、ただ水をかければよいというものではない。牧師であっても、通りがかりの人からも学べることはたくさんある。
 街灯に照らされた夜の道を行く人たちもさまざまだ。歩きたばこがとても多い。教会の花壇は、ちょうどよい灰皿となり、空き缶などのゴミ捨て場ともなる。そこが教会だからそうするというのではないだろう。この世の現実の一端である。
 教会近くの一帯で、スプレー缶による大掛かりな落書きがなされた夜もあった。なぜか教会堂には落書きはなされず、教会の脇にある電柱に青々と模様を記していた。犯人はすぐに見つかり、あどけない少年だったという。
 さまざまな現実を負っているであろう人々を、教会前の通りで垣間見る。
 教会は、理想や理念を語るというよりは、世にある現実を正面からとらえようとする。そこにたとえ決定的な解決策を即時には見いだせないとしても、この現実があったとしてもなお、『救いはある』、と教会は語る。
 あと数週間で、道行く人はクリスマスを迎える教会の電飾を見ることになる。人間の現実、社会の現実、国家の現実・・・。喜びも災いも続いている世の現実の中で、教会は道行く人々に静かに関心を寄せ続けている。

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