少年の背中

 冷たい雨の降る夕暮れ時、制服を着ている男子小学生が一人で立っていた。近所のコンビニの軒先で、店で買ったカップに入ったおでんを食べていた。
 道路側に向けていた背がどこか寂しげだ。いや、むしろ哀れみを誘っている。カップからたつ湯気がかろうじて安堵を醸し出す・・・。持ち物から察するにこれから塾に向かうようだ。
 少年やそのご家族のご意向や目指したい目標や将来の夢もあってのことだろう。希望する道を本人も頑張って進み行きたいがゆえに違いない。私は少なくともそう考えたい。
 しかし、何かが違うような気がしてならない。違和感を覚えた。
 さまざまな環境や価値観がある世に生まれた人が向かうはずの幸せとは何なのか。改めて考えさせられる。その人が「幸いなる生涯」をどのようにして歩みきれるのか。それは世に生きる子どもたち全体に関わることであり、また同時に、今を生きる大人にもあてはまる。
 自分が手に入れたい将来を実現できるのは幸いであることに違いない。ただし備えなければならないこともある。
 自分が予期してなかった予想外の事態、しかも大きな不幸や激しい落胆をもたらすような状況に置かれた時に、どれだけの人が普段から確かな備えをしているだろう。
 大地震などの自然災害に備える人は増えた。しかし、その人だけがまるで突き落とされたような事態に陥った時への備えは、ほとんどの人はできていないのではないか。
 命に係わる非常事態とまでは言わなくても、何かとても辛くなったり困ったことになった時、既存の利害関係や人間関係をいったん脇へ置いて話せる。そのような幸いに近づける窓口は、この国にはとても少ない。
 自分の将来や実現したい夢を確かな準備をもって進めるのは大切だ。同時に、何か予想外の出来事に見舞われた時に恥ずかしがらずに話せる場所と相手と出会っておきたい。それがその人にあるべき「幸い」をより確かなものにしてくれる。教会がその手助けとなるなら、教会全体にとっての喜びとなる。
 肌寒い雨が降る夜に一人で立ったままおでんを食べている。哀愁に満ちた現実を背負いながら、かろうじて今日を生き、なんとかして明日を迎えようとしている人が、今、大勢いる。

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