主の御許へ

 昨冬は厳しい寒さのせいか、主の御許に召される教会関係の方が年明けから相次いだ。
 予期せぬ末期がん告知を受けていた方、普段通りの生活をしていて突然に誰にも気付かれないまま召された方、療養生活が長く続いた中で静かに召された方・・・。誰もがただ驚くしかない知らせが続いた。
 葬儀の依頼を受けた場合は、ご本人とご遺族のご希望を私は丁寧に伺うことにしている。決して教会のしきたりや葬儀社からの勧めをそのまま押し付けたりはしない。希望通りに進めることが、召された方との厳粛なお別れのために最も重要なことだからだ。
 葬儀や追悼礼拝の準備をするためご遺族や近親の方々から生前のご様子をお聞きするたびに思い知ることがある。召されたご本人が、来るべき自分の最期を生前にどう受け止めていたかについて、近しい人に伝えていたかどうかで、「残された人々のその後」に及ぼす影響に大きな違いが生じる。
 具体的な願いや気持ちが何も伝えられないままに召されると、その最期を直接受け止める方々は不安になる。「故人の望み通りにできたのかどうか」。親族との間の人間関係もあるし、場合によっては世間体も関わってくる。
 昨冬に召された方に関係する方ではなかったが、中には「全てをお任せします」という要望もある。しかし、だからといってすべてを司式者の意図通りに進めるわけにもいかない。少なくない費用が必要となる葬儀の主催者は教会ではなく、あくまでもご遺族だからである。もっと厳密に言えば、キリスト教会での葬儀は家庭礼拝の一形式となる。それを司式者や教会がお手伝いする。
 地上での生涯を終える。そのしめくくりを託される方々の「その後の将来」のためにも、必ずややって来る自らの最期に真摯に向き合いたい。そして自分の希望や願いを誰かに託しておきたい。それを確実に準備できるところが教会だ。
 身近な人が召された時だけでなく、自らの最期について真剣に正面から向き合う。それが教会の礼拝を守る者たちの姿となる。

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