掛け声

 先週降った雪が氷になったまま日陰にまだ残っている。1月の東京都心部にしては珍しい積雪だった。水分を多く含んだ雪だったので朝になったらそのまま凍結してしまう。

 夜半過ぎに止み始めた頃合いを見て、教会堂の周りで雪かきをしてみた。この冬、教会の倉庫で少々使い古したものだが雪かき道具を見つけていた。教会の公開敷地の一部が緩い斜面になっていて事故が起こるのではと、以前から気になっていたせいもある。

 始めてみると意外なことに驚かされた。駅方面から家路を急ぐ少なくない人々から「どうもぉ」「ごくろうさんです」と声がかかるのだ。一人や二人ではない。中には通り過ぎてからわざわざ引き返してきて、「あのぉ、教会の方ですか」と確かめる人までいる。

 この辺りでは、以前から土地に馴染んでいる住民は別として、いわゆる「隣は何をする人ぞ?」といった雰囲気が漂う。道すがら見ず知らずの人どうしが声を掛け合うことは、日常的な光景だとは言えまい。

 東京で雪が降り積もり始めると、大人であっても感じる、あの子どもの頃のような昂揚する気持ちのせいもあるのだろう。何となく声を掛けやすくなるのかもしれない。だとしても、雪の夜道で声を掛け合うのは、疑いや駆け引きなしで互いのことを配慮し合うという、どこか健やかな清々しさを互いに分かち合っていくことになる。

 昨年は大地震など、語る言葉を失う時があった。何をどう語ったらよいのかわからなくなってしまう辛い出来事は、本当に人を深い嘆きと痛みに追い込む。しかし、そうした現実を少しでも変えていくための、小さな突破口があると思う。

 語る言葉を失ってしまうような時ほど、その思いを言葉で出そうとする。たとえ理路整然としたスマートな言葉でなくてもよいから、思い切って声にする。言葉にしてみようする。そうすることで、語る言葉を失っている人の魂は、目に見えないしかし確かな何かを、やっと口にできたその小さな言葉で少しずつ把握していくのではないだろうか。

 キリスト教会は、言葉を探求する。どのような言葉で語ったらよいのか分からない人の心の動きを、聖書の言葉でもって形にして見ようとする。自分の魂の姿を、神の言葉である聖書からとらえようとする時、その人は自分の中に新しい真実を見る。

 教会の周りのあちこちにできていた雪の小山は、明日には消えるだろう。しかし、まるで凍り付くような世の現実の渦中にあっても、どうにかして言葉にして発しようとし誰かに伝えようとする、人の魂が発しようとするその力は決して消え去ることはない。いや、人の意志によってその力は消しえないものだ。

 打ち解けた清い掛け声が飛び交っている、この喜びに満ちた教会にまた一歩、近付きたい。

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