「歩いていく」

「歩いてくぅ。」

 3歳くらいの女の子が母親の先を行こうとしている。仕事帰りの装いをしている母親は、押している自転車の後ろの席に乗せて家路を急ぎたいようだ。

 時間は夜の10時をとっくに過ぎている。3歳の女の子が起きている時間ではない。夜間の託児先に迎えに来た母親と家に帰るのだろう。眠いはずだ。ところが女の子の足取りは軽い。むしろ、喜んでいて、どこか誇らしげでもある。

 買い物袋を手にしながら足早に追い抜こうとした私と、目が合った。その瞳は、大人のように得意げだ。

 「いやだぁ、歩いて帰るぅ」。母親が、自転車で帰ろうとしきりに声を掛けているのを聞こうとはしない。この子の家は、ここからどのくらい離れているのか。

 自転車でさっと帰って、早く家に着いて寝た方がいいに決まっている。その次の日も、きっと朝早くから起き出して、託児先に向かうのだろうから。洗濯や朝ごはんの準備も待っている。でも、それは大人が考える能率や合理というものだ。

 あの女の子にとっては、どんなに夜遅くても母親と一緒に過ごす時間が欲しかったのだろう。その時が少しでも長くなるには、自転車に乗らないで歩いていくしかない。歩けるところまで一緒に歩いていく。それがこの夜の女の子の、言葉にはならない望みだったのだろう。

 夜道を急ぐあの母親に限らず、社会は能率や合理の追及を求めている。可能な限りの無駄を排除して、可能な限りの省力によって最大限の、定めた基準や目標以上の結果を出すことが常に期待されている。

 実現可能な能率と合理を追求し続けること・・・。そこには確かな成果と成功がもたらされる、と誰もが考える。評価に値する実績が積み増せると考えてしまう。

 しかし、合理がもたらす本来の結果とは、誰もが喜んでいて、誇らしげで、確かな望みを抱けるような「成果」につなげることではないだろうか。もし、その「成果」が不確実、不透明になっているのだとすれば、合理の生み出す成果は、本末転倒と言わざるを得ない。

 能率や合理の虜になっていては、今自分が得ている小さな幸せや望みも、見えなくなっていくのではないだろうか。能率や合理の追及に打ちのめされてしまう時、人はあるべき喜びや望みを見失ってしまうのではないだろうか。

 今生きている喜び、これから生きていく喜び。それは、人間の目には「非合理」なものから生まれるのだ。まったく非合理的で非能率的なものとしか考えられないところに、幸いと自由が隠されている。

 経済活動や社会システムは、これからも能率や合理をさらに高度に追求してやまないだろう。夜昼問わずスピードアップしていくだろう。一人の人が負う責任、期待される仕事の量も質も、よりうず高く積み増されていくだろう。

 それが全世界を覆っている社会の現実であったとしても、“教会”は敢えてゆっくりと歩いていこうとする。非合理で非能率な時間の流れにしか見えない“礼拝”の中にこそ、真の幸いと自由・・・魂の自由が現れ出てくるからだ。礼拝が見据えようとする生の問題、そして死の問題こそ、人間にとって最大、最強の非合理なのだから。

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